山口を西の京として全盛期を築くも、謀反に倒れた大内義隆

今日は何の日?
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今日は何の日?

1507年(永正4年)11月15日は大内義隆の誕生日です。

大内義隆(おおうち よしたか)とは?

大内氏16代当主で周防国(すおうのくに 山口県東南半分)長門国(ながとのくに 山口県西半分)石見国(いわみのくに 島根県西部)
安芸国(あきのくに 広島県西部)豊前国(ぶぜんのくに 福岡県東部 大分県北部)筑前国(ちくぜんのくに 福岡県西部)の守護を務めた戦国大名です。

義隆は大内氏15代当主・大内義興(おおうち よしおき)の嫡男として大内氏館(おおうちしやかた 今の山口市)で出生しています。

幼名を歴代の当主が名乗っていた亀童丸(きどうまる)と名乗り、次期当主としての地位が明確にされていました。

その為、代々起こることが多かった家督相続時に内紛が起きていません。

亀童丸は室町12代将軍足利義晴(あしかが よしはる)より、名前の一字を受け元服して、義隆と名乗ります。

元服すると、1524年(大永4年)に父と共に安芸国に出陣します。

重臣の陶興房(すえ おきふさ)と共に尼子氏の勢力下にあった安芸武田氏の佐東銀山城(さとうかなやまじょう)を攻めますが、尼子方だった毛利元就(もうり もとなり)が救援にきて、大内氏は敗退します。

そして、山陰地方でも尼子氏と戦果を交えています。

この頃公卿の万里小路秀房(までのこうじ ひでふさ)の娘・貞子(さだこ)と結婚し、1528年(享禄元年)12月に義興が死去すると、22歳で家督を相続しました。

北部九州平定を巡る戦略

1530年(享禄3年)には、九州に出兵し、豊後国(ぶんごのくに 大分県の大部分)の大友氏や筑前国の少弐氏と北九州の覇権を争います。

家臣の杉興運(すぎ おきかず)や陶興房に軍を任せ、少弐氏を攻めさせます。

肥前国(ひぜんのくに 佐賀県・長崎県)の松浦氏を従属させ、北九州沿岸を平定すると、大陸貿易の利権を掌握しました。

しかし、杉興運は少弐氏家臣の龍造寺家兼(りゅうぞうじ いえかね)に大敗しています(田手畷の戦い)

1532年(天文元年)に大友氏が少弐氏と手を結び侵攻してきた為、義隆は北九州攻略の大義名分を得ようと太宰大弐(だざいだいに 大宰府の次官)の官職を朝廷に対し働きかけますが、失敗しています。

1534年(天文3年)には龍造寺家兼を調略し離反させ、少弐氏の弱体化を図っています。

そして陶興房に命じ、豊後国を攻略させますが、失敗します。(勢場ヶ原の戦い)

しかし、義隆を裏切り、少弐氏側についた九州探題の渋川義長(しぶかわ よしなが)を攻め滅亡させます。(因みに渋川氏は足利氏一門です)

この年、後奈良天皇の即位礼に合わせ銭2千貫を朝廷に寄進し、太宰大弐の官職を再度申請します。

一度は許可があったものの、1日で取り消されています。

これ程、太宰大弐の官職に拘ったのも、少弐氏の上になりたかったからです。

少弐氏は官職名であり、代々世襲した為、少弐氏を名乗っていますが、元の名字は武藤氏でした。

1536年(天文5年)にようやく太宰大弐に叙任され、大義名分を得ると、龍造寺氏と共に少弐資元(しょうに すけもと)を滅ぼし、北九州地方の平定をほぼ完成させます。

1537年(天文6年)に足利義晴より幕政に加わるよう要請を受け、上洛しようとしますが、尼子氏に阻まれ領国経営を安定させる為断念します。

1538年(天文7年)将軍・義晴の仲介により、大友義鑑(おおとも よしあき)と和睦します。

方針転換

1539年(天文8年)には父の代からの補佐役であった陶興房が病死し、息子の隆房(たかふさ)後の晴賢(はるかた)へ代が変わります。

1540年(天文9年)尼子経久(あまご つねひさ)の孫・晴久(はるひさ)が安芸国へ侵攻し、この頃大内氏に従属していた毛利元就の吉田郡山城を攻めます(吉田郡山城の戦い)

義隆は陶隆房を総大将として援軍を送り、尼子軍を撃破しました。

これにより大内氏は尼子氏に対して攻勢に出ることとなり、1541年(天文10年)には尼子方だった安芸武田氏らを滅ぼし、安芸を完全に勢力下に置きます。

同年11月には尼子経久が亡くなります。

これを機に1542年(天文11年)1月、義隆自ら出雲国(いずものくに 島根県東部)に遠征し、尼子氏本拠地の月山富田城(がっさんとだじょう)を包囲します。

しかし、配下の武将達が寝返り、大内軍は尼子氏に大敗します。

しかも退却時に寵愛していた義隆の養嗣子の晴持を失います。

政治的野心と領土への関心を失った義隆は文治派の相良武任(さがら たけとう)らを重用します。

平和な時代なら良かったのでしょうが、世のなかはまだ戦国時代。

武断派の陶隆房や内藤興盛(ないとう おきもり)らが不満を持ち、対立が起こりました。

1550年(天文19年)8月に山口へフランシスコ・ザビエルが布教の許可を求めやってきます。

引見した義隆は、汚れた服装で面会に臨み、進物もせず、義隆の放蕩ぶりや、仏教の保護・当時一般的だった男色を非難したため立腹し、布教の許可は出すことはなく、ザビエルは畿内へと旅立ちます。

同じ頃、陶や内藤らが謀反を起こすとの噂が立ち、一時軍勢と館に立て籠もったそうです。

側近の冷泉隆豊(れいぜい たかとよ)が武断派の陶らの討伐を進言しますが、義隆は受け入れることはありませんでした。

1551年(天文20年)4月頃、再びザビエルがやってきます。

この時は美麗な服装で飾り、珍しい物を献上しました。

義隆はザビエルに布教を許可し、大道寺をその拠点として与えています。

大寧寺の変

同年8月、義隆と険悪になった陶隆房らが遂に謀反の兵を挙げます。

しかし、重臣の内藤興盛はこれを黙認し、救援しませんでした。(興盛の娘は義隆の側室であり、義隆の義父にあたるのにもかかわらずです。)

義隆は姉婿にあたる津和野の吉見正頼(よしみ まさより)を頼ろうとしますが、暴風雨の為たどり着けず大寧寺に立て籠もります。

義隆に付き従った冷泉隆豊が奮戦しますが、9月1日隆豊の介錯で自害します。享年45

巻き添えをくらった被害者たち

義隆の嫡男の大内義尊(おおうち よしたか)は翌日捕らえられ殺害されます。享年7

この当時周防に滞在していた三条公頼(さんじょう きんより)・二条尹房(にじょう ただふさ)ら多くの公家達も殺害されています。

               大内義隆らが立て籠もった大寧寺

 

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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