知名度は低いが、将軍在位は最長。室町幕府4代将軍・足利義持

今日は何の日?
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今日は何の日?

1394年12月17日 足利義満が将軍を辞し、子の義持が将軍となる

足利義持(あしかが よしもち)って?

                 足利義持

元中3年/至徳3年(1386年)2月12日生まれ。(元号が2つあるのは、南北朝時代だった為、南朝と北朝で別々に使用されています)

父、3代将軍・足利義満(あしかが よしみつ)母、藤原慶子(ふじわらの よしこ)

兄が2人いましたが、側室の子だった為、義持が嫡男として扱われています。

応永元年(1394年)12月17日、父・義満から将軍職を譲られると僅か9歳で4代将軍となり、応永30年(1423年)まで28年間の足利氏の最長将軍となりました。

しかし、実権は義満に握られており、公式に将軍として活動したのは応永7年(1400年)からでした。

それでも、父の力を背景に出世を重ね、応永2年(1395年)には従四位だったものが、応永9年(1402年)11月19日には従一位にまで上がり、応永13年(1406年)8月17日には右大将を兼任しています。

これには、義満の公家社会に対しても強い権力を保持したいという意向があったためです。

義満との関係

                  足利義満

義持は義満とは不仲だったと言われています。

初めから不仲ではなかったようですが、母・慶子が亡くなった時、義持は寺に籠居しますが、対して義満は悲しみを態度に出さず、酒を飲み、酒宴を行っていたなどの態度が義持の心境に影響したようです。

また、義満は義持の異母弟・義嗣(よしつぐ)を偏愛してました。

義嗣元服の際も、親王の元服と同等となる内裏で元服を行っており、家督相続の有力候補と見られていました。

実は、将軍は義持ではありましたが、足利家の家督は義満が保持していた為です。

応永15年(1408年)5月、義満が重病に陥ると、義持は寺院山門に加持祈祷を行わせています。

しかし、5月6日には義満は死去します。

こうなると家督相続の問題が勃発しますが、義嗣元服の2日後に病に倒れ、数日で危篤になった義満には後継者を遺言する時間がなく、足利氏一門でもあった斯波義将(しば よしまさ)の主張により、義持が家督相続者に決定します。

義持の治世

義満が亡くなると、朝廷は5月9日に義満の生前の地位を考慮し、大上法皇(大上天皇)の尊号を与えようとしますが、義持や義満没後に政権を握った斯波義将らは「前例がない」として反対し拒否します。

また、義満が造営した政治中枢の「北山第」も義母の日野康子(ひの やすこ)の死後、鹿苑寺(金閣寺)を残し全て取り壊しています。

文化面でも、義満が保護していた猿楽能の世阿弥を遠ざけています。

外交関係では明との関係を転換し、義満が明との間に開いた冊封関係(さくほうかんけい)を否定し、応永18年(1411年)明と国交を断絶します。

元々、明との貿易するため冊封関係をとっていたのでしょうが、、明より「日本国王」として家臣扱いを受けるのが許せなかったのでしょうね。

このように義満が行ってきた事に対して違う路線をとっていますが、義満に対する反発でしょうか。

応永17年(1410年)5月7日、義持を補佐しててた斯波義将が死ぬと、旧南朝勢力が活動します。

11月に南朝最後の天皇だった後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が吉野に出奔します。

これを契機に応永18年(1411年)7月、飛騨(ひだ 岐阜県)の国司姉小路尹綱(あねこうじ ただつな)が、反乱を起こし討たれています

応永22年(1415年)には河内(かわち 大阪府)で楠木氏が反乱を起こし、同年春には北畠満雅(きたばたけ みつまさ)称光天皇(しょうこうてんのう)の即位を不服として、両統定立(りょうとうていりつ)の約束を守る事を要求し反乱を起こしますが、幕府と間もなく和解します。

後亀山天皇は幕府の説得もあって、応永23年(1416年)秋に帰京しています。

上杉禅秀の乱

応永23年(1416年)10月関東で上杉禅秀の乱が起きます。前関東管領だった上杉禅秀(うえすぎ ぜんしゅう)鎌倉公方・足利持氏(あしかが もちうじ)に対して起こした反乱で、義持はこの報告を聞くと激怒し、持氏救援を命じます。

初めは関東限定の紛争かと思われていましたが、弟の義嗣が京都を出奔するという事件が起こります。

義持は帰宅を促しますが、義嗣は出家を望み応じなかった為、身柄を仁和寺興徳庵に移し、身柄奪還の懸念から警固させ、その後相国寺へ移させます。

また、義嗣の側近たちを加賀(かが 石川県)に流罪にします。

これは、義嗣が「義持に自分の所領が少ないので加増を求めたが取り合ってもらえなかったためにこの事を恨んで野心を企てた」のが動機で、「当時鎌倉公方だった足利持氏に対立していた上杉禅秀にと連携して反逆するつもりだった」といいます。

禅秀の乱は応永24年(1417年)、幕府の支援を得た持氏軍によって鎮圧されますが、翌年には義嗣に与力したとして土岐持頼(とき もちより)が所領を召し上げられ、重臣の畠山満慶(はたけやま みつのり)にも嫌疑がかかり、他にも山名氏が出仕停止に追い込まれたりしました。

そして、その首謀者と目された義嗣は、義持の密命を受けた富樫満成(とがし みつなり)に殺害されます。

この処置は義持と側近の富樫満成によって主導されており、管領が関与してませんでした。

その為、満成の権威が高まり、諸大名の反発を買うようになります。

その満成も細川氏らの巻き返しをうけ、義嗣の愛妾と密通していたことを告発され失脚し、高野山に逃れますが、後に殺害されます。

次は持氏との対立へ

上杉禅秀の乱では協力した義持と持氏でしたが、乱が終息すると対立に転じます。

原因は持氏の戦後処理にあります。

持氏は反乱軍に味方した諸大名をを許さず、徹底的に討伐します。

禅秀の娘婿の岩松満純(いわまつ みつずみ)や武田信満(たけだ のぶみつ)らは持氏の追討を受け、処刑や自害に追い込まれます。

信満の自害によって守護不在となった甲斐(かい 山梨県)の国や持氏派と幕府派で対立する常陸(ひたち 茨城県)でも守護の問題が起こり、義持と持氏の溝は深まります。

義持の支援を受け、持氏の戦後処理に不満を持った関東の国人らが反鎌倉府の動きを見せます。

両派の対立は応永30年(1423年)7月に頂点に達し、義持は持氏討伐の命令を出します。

義持の強固な態度に追い詰められた持氏は、応永31年(1424年)2月に義持に起請文を送り、謝罪並びに和議を申し出て最終的には和睦します。

幕府と鎌倉府(持氏)の対立は、義持の弟で6代将軍となった義教(よしのり)の代にも永享の乱として起こりますね。

隠居後

応永30年(1423年)3月18日義持は嫡子の義量(よしかず)に将軍職を譲ります。

そして4月15日に等持院で出家しますが、秘密とされており、側近の満済(まんさい)すら知りませんでした。

法号は道詮(どうせん)と号します。

なお、出家したとはいえ、幕政の実権は義持や有力守護が握っていました。(このあたりは義満の代と同じですね)

応永32年(1425年)2月27日、義量は19歳で急死します。

義量には子がなく、義持にも他の男子がいなかった為、前将軍の義持が幕政を総括することになりました。

応永34年(1427年)には、また守護大名の政争が表面化します。

幕府宿老で播磨(はりま 兵庫県)の守護だった赤松義則(あかまつ よしのり)が70歳で死去し、息子の満祐(みつすけ)が継ぎますが、赤松家の所領は播磨・備前(びぜん 岡山県東南部・香川県小豆郡・兵庫県赤穂市の一部)美作(みまさか 岡山県東北部)の3国でした。

当然、満祐は本領安堵を望みますが、義持が出した命令は「播磨は幕府直轄領とし、一族の赤松持貞(あかまつ もちさだ)を代官に任命して預け置く」と言うものでした。

これに満祐は拒否し、家内にあった財宝を家臣に分け与え、自邸を焼いて播磨に下向します。

これに激怒した義持は赤松討伐を命じますが、諸大名も積極的でなく、そうするうちに持貞が義満の愛妾だった髙橋殿と密通していたという直訴が行われ、持貞は弁明しますが、義持は受け入れず切腹を命じます。

結局、持貞は切腹し、逆に満祐は許され3ヶ国の相続を認められます。

義持の最期は、応永35年(1428年)1月7日に浴室で尻に出来た出来物を掻き破って発熱を起こしたことによるものでした。

1月8日夜には傷が盛り上がり、11日に幕府にとって重要な評定始がありましたが、近臣に手を引かれるほどひどい状態だったようです。

1月17日になり、極めて危険な状態となった為、管領の畠山満家(はたけやま みついえ)をはじめ、幕府重臣は慌てふためき、満済の元に集まって後継者選定について話し合います。

そして満済が義持に後継者の意向を聞きますが、義持は決定せず幕府重臣に任せるとします。

結局選定を籤で決めるということとなり、候補者である義持の弟・4人の中から籤引きで義教が決まることとなるのです。

午後6時ごろ危篤となった義持は、18日10時ごろ亡くなります 享年43

1月19日、義持の遺体は等持院に移され、1月22日に贈太政大臣の宣下が出されます。

23日に等持院において荼毘にふされ、遺骨が納められます。

法号は勝定院顕山道詮、位牌は相国寺勝定院に安置されました。

                  等持院

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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