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3月29日の今日は何の日?
1683年3月29日「八百屋お七」が鈴ヶ森で火あぶりの極刑にされる。
「八百屋お七」って?
月岡芳年画 八百屋お七
寛文8年(1668年)?-天和3年3月28日(1683年4月24日)
江戸本郷の八百屋の娘で恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火あぶりの極刑にされたとされる少女です。
しかし、すでにツッコミどころが。
3月29日なのに死亡は3月28日とは。
そもそも、お七は実在した?
お七をモチーフとした小説・物語は多数あり、それが後年に浮世絵・日本舞踊・演劇・落語などに取り入れられてます。
しかし、歴史資料としては戸田茂睡(とだ もすい 江戸時代の歌学者)が書いた『御当代記』と言う日記のようなものに、天和3年の記録として「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」(お七という名前の娘が放火し処刑されたこと)だけが記録されています。
なので、年齢や処刑の事実も分からず、お七の生家が八百屋だったのかも不明です。
この時代に成立した実録体の小説で、比較的信憑性の高いとされる『天和笑委集』(作者不明)がありますが、それによると、天和2年12月28日(1683年12月28日)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親と共に正仙院と言う寺に避難します。
その時に寺で出会ったのが、生田庄之介という若者。この若者と恋仲になりますが、やがて家が建て直されると、寺を引き払います。
庄之介への思いが募り、もう一度家が焼ければ庄之介と寺で暮らせると思ったお七は自宅を放火するという行動を起こします。
結局、ぼやで食い止められますが、お七は放火の罪で捕まり、鈴ヶ森の刑場で処刑されるというものです。
江戸時代の家は当然木造で燃えやすいため、放火に対する罪は厳しかったようですね。
目には目、歯には歯、放火には火あぶりで対応するという。
また、井原西鶴の「好色五人女」の中でもお七の話は4番目に出てきます。
井原西鶴といえば、大阪出身の有名な人形浄瑠璃作家・俳諧師ですね。
井原西鶴像
この人もお七の事件後、3年以内にこの作品を出版しており、後世に大きな影響を与えました。
この作品も、お七一家が焼け出され、寺に避難し、恋仲に落ちたあと放火して火あぶりになったことは天和笑委集と共通しています。
天和笑委集では、美人に描かれていて、捕まった後、奉行所の取り調べでも何とか助けてやりたいとしますが、庄之介に迷惑をかけたくないお七は庄之介の名前は出さず、要領の得ない答えをするばかりで、これでは助けられないと火あぶりになったそうです。
庄之介はというと、旅に出たあと高野山の僧になっています。
他作品でも、お七は美人だったり、勉強ができたりと同情を誘うような人物像として描かれていて、あまりに若いので、助けたいと思った奉行はお七の年齢を聞きますが、(〇歳以下なら死刑にしない)お七は奉行の意図が分からず、正直に答えてしまい死刑になったという話もあります。
お七ゆかりの史跡
天和笑委集ではお七が避難した寺は「正仙院」となっていますが、この寺は実在せず、延宝8年の『江戸方角安見図』で本郷森川宿の近くに「正泉院」と言う寺が確認できます。
他には円乗寺(東京都文京区)とする説もあります。
円乗寺には、天和3年3月29日に亡くなった法名妙栄禅尼の墓があり、それがお七の墓とされてます。後年、歌舞伎役者の5代目岩井半四郎がこれをお七の墓として墓石を追加しています。
但し、これには専門家の疑問があり、火あぶりで死罪になった人が墓に葬られるのかと疑われてます。
円乗寺の他にも鈴ヶ森刑場に近い真言宗寺院・密厳院には、刑死したお七が埋葬されたとの伝承があります。(鈴ヶ森は仕事でよく通る事がありますが、処刑場があったと思うと気持ち悪いですね。)
お七の墓(東京都文京区 円乗寺)
後世への影響、丙午(ひのえうま)の迷信
干支の丙午生まれの女性は気性が激しく、夫の寿命を縮めるという迷信があり、そのことからこの年の出生率は下がっています。
一説にはお七が1666年の丙午生まれという事と、江戸時代の丙午の年には火事が多いという迷信が繋がって広まっていったためとも言われています。
スマイリー
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