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今日は何の日?
1203年(建仁3年)6月23日は阿野全成の忌日です。
阿野全成(あの ぜんじょう)って?
阿野全成は、鎌倉時代の僧侶で、源義朝(みなもとの よしとも)の七男です。母は常盤御前(ときわごぜん)。
つまり、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとの よりとも)の異母弟で、源義経(みなもとの よしつね)の同母兄でもあります。
義朝、平治の乱に斃れる
1156年(保元元年)7月に発生した保元の乱で、義朝は父や弟たちを失い、源氏の勢力が衰退していました。
唯一残った義朝でしたが、1159年(平治元年)の平治の乱で敗れ、殺害されてしまいます。
当時7歳だった全成は醍醐寺に預けられ、出家させられてしまいます。
反平氏勢力の挙兵
1180年(治承4年)に平家追討の以仁王(もちひとおう)の令旨(命令書)が出されると、密かに寺を抜け出し、東国に下り、石橋山の戦いで破れていた頼朝の元に駆けつけ対面を果たします。
兄弟の中で最初に対面を果たした全成は、頼朝に信頼され、武蔵国(むさしのくに 東京都、埼玉県と神奈川県の一部)に長尾寺(現在の妙楽寺)を与えられました。
妙楽寺
そして、頼朝の妻、北条政子(ほうじょう まさこ)の妹・阿波局(あわのつぼね)と結婚するのです。
この時点で、頼朝とは、兄弟であり、相婿の関係となりました。
しかも、阿波局は頼朝の次男・実朝(さねとも)の乳母となっており、頼朝の有力な近親者のはずですが、頼朝期には表舞台に出てきてません。
しかし、駿河国(するがのくに 静岡県中部、東北部)の阿野荘を領有し、有力御家人として将軍家に仕えています。
頼朝死後
1199年(正治元年)頼朝が亡くなり、甥の頼家(よりいえ)が2代将軍となると、全成は実朝を擁する舅の北条時政(ほうじょう ときまさ)や義兄弟の義時(よしとき)と結び、頼家と対立するようになります。
1203年(建仁3年)5月19日、先手を打った頼家は、武田信光(たけだ のぶみつ)を派遣し、全成を謀反人として捕縛させ大倉御所に閉じ込めます。
そして、5月25日には、常陸国(ひたちのくに 茨城県)へ流刑にします。
6月23日に頼家の命令を受けた八田知家(はった ともいえ)により全成は殺害されます。享年51
また、全成の三男の頼全(らいぜん)も京都で殺害されています。
(頼家は、身近な叔父である全成一族を討ちますが、流石に母方の北条氏までは手が出せなかったのでしょうか?後年、北条氏によって殺害されてしまいますから、誰も信用できない恐ろしい時代ですね。)
結局頼朝の弟で最後まで残っていた全成ですが、天寿を全うすることができませんでした。
因みに頼朝の兄弟はすべて戦死か殺害で命を落としています。
全成の子孫
全成の跡は時元(ときもと)が継ぎますが、3代将軍となった実朝が暗殺された後、将軍になろうと野望を持ったようです。
しかし、母方の北条氏にも支持されず、逆に北条義時の命を受けた手勢に討たれています。
全成と時元の墓は、静岡県沼津市の大泉寺に並んで現存し、市の史跡にも指定されています。
こういった事もあってか、武家の阿野氏は南北朝時代以降、歴史から姿を消しています。
一方、時元の妹は、公家と結婚し、こちらの子孫は公家の阿野氏として残りました。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の寵愛を受けた、阿野廉子(あの れんし)はこの末裔です。
スマイリー
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