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4月20日の今日は何の日?
1546年河越夜戦 北条氏康(ほうじょう うじやす)軍が上杉憲政(うえすぎのりまさ)・上杉朝定(うえすぎともさだ)・足利春氏(あしかが はるうじ)の連合軍との戦いで勝利する。
これは日本三大奇襲と言われる戦いの1つです。
河越城の戦い・厳島(いつくしま)の戦い・桶狭間(おけはざま)の戦い
室町時代初期~の関東地方
元々、関東地方は初代将軍・足利尊氏(あしかが たかうじ)の次男の系統が鎌倉公方(かまくらくぼう 関東の将軍)として治めていました。
鎌倉公方を補佐する役職として関東管領があり、上杉氏がその地位を独占するようになります。
そして、鎌倉公方以上の力を持ってくると、鎌倉公方と対立していきます。
また、鎌倉公方は京都の将軍とも対立するようになり、永享10年(1438年)に永享の乱(えいきょうのらん)と言う事件が起こり、4代目の鎌倉公方の足利持氏(あしかが もちうじ)が滅亡させられます。
その後、上杉氏が関東地方を支配しますが、持氏の遺児・成氏(しげうじ)が鎌倉公方となると、今度は関東管領の上杉憲忠(うえすぎ のりただ)が成氏に暗殺され、享徳の乱(きょうとくのらん)のきっかけとなります。
そこへ京都の将軍が介入して幕府軍を派遣した為、成氏は本拠の鎌倉から追われ、下総国(しもうさのくに)の古河を本拠とし、古河公方(こがくぼう)と名乗ることとなります。
しかも幕府によって任命された足利政知(あしかが まさとも)が伊豆国(いずのくに)で堀越公方(ほりこしくぼう)となると、関東には公方が2人となり対立していきます。
一方、上杉氏の方でも系統が分かれており、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の他に、庶流の扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)が台頭してきており、山内上杉家が扇谷上杉家を討伐する長享の乱(ちょうきょうのらん)が起こり、18年も続くこととなります。
ここへ入り込んできたのが伊勢宗瑞(いせ そうずい 後の北条早雲)です。
早雲は伊豆の堀越公方を滅ぼすと、扇谷上杉領であった相模国(さがみのくに)を制圧し、勢力を広げます。
早雲の子の氏綱(うじつな)も武蔵国(むさしのくに)まで進出し、扇谷上杉氏の本拠である河越城を占領します。
この時城の守備を任されたのが北条綱成(ほうじょう つなしげ)です。
北条綱成
信長の野望での北条綱成
永正12年(1515年)~天正15年5月6日(1587年6月11日)
北条の姓を名乗っていますが、父親は今川家家臣の福島正成(くしま まさしげ)とされています。
父親の死後、小田原に落ち延びて氏綱に保護されたという説と、今川家の内紛である花倉の乱(はなくらのらん)後に氏綱の元に落ち延びたという説がありますが、どちらにしても氏綱に気に入られ、氏綱の娘と結婚することにより北条となり、しかも氏綱の綱の字を頂き綱成を名乗っています。
綱成は闘将として有名で、黄色に八幡と書かれた旗をたて各地で戦った武将です。
この頃は足利氏・両上杉氏に敵視されていて、氏綱は足利晴氏(あしかが はるうじ)へ娘を嫁に出していました。
しかし2代目の氏綱が亡くなると、氏康(うじやす)が跡を継ぎます。
北条氏康
北条氏康 像
偶然ですが、義弟の綱成と年齢は同じですね。北条氏綱の嫡男として3代目当主となる。内政家としても有名で、元々よそ者の北条氏が勢力を拡大できたのも、歴代同様、税制改革に熱心で領民の負担軽減に尽力して、領民たちに支持されたからかもしれませんね。
氏康が跡を継いでから危機を迎えます。
天分14年(1545年)7月に駿河の今川義元(いまがわ よしもと)が関東管領の上杉憲政と手を結び北条領に侵攻してきました。
氏康は駿河まで出陣しますが、今川と同盟関係にある武田信玄(たけだ しんげん)まで出陣していた為、不利な状況でした。
その時に山内上杉憲政と扇谷上杉朝定が河越城を包囲し、その連絡が氏康に届きます。
10月に義元とは信玄のあっせんで和睦をすることができますが、氏康の妹婿の足利晴氏までが、上杉方につき、河越城は8万の大軍に包囲されてしまいます。
一方、河越城を守る綱成は3000人という兵力で落城は時間の問題でした。
氏康は8000人の兵力で救援に向かい、連合軍に偽りのわび状を出し続け、油断させます。
そして、天文15年4月20日の夜、兵力を分散し奇襲をかけます。
河越城内からも綱成が出陣し、油断していた連合軍は大混乱を起こします。
北条軍の一方的な勝利により朝定は討ち死にし、これにより扇谷上杉氏は滅亡してしまい、憲政と晴氏も必死で退却します。
憲政と晴氏のその後
憲政は居城の平井城を攻められ北条氏の圧力に耐えきれず、越後の守護代の長尾氏を頼ります。
そして長尾家当主の長尾景虎(ながお かげとら)を養子にすることで、関東管領職を譲り、上杉景虎(うえすぎ かげとら 後の上杉謙信)が出現することになります。
上杉謙信が亡くなると、上杉家の内紛である御館の乱(おたてのらん)で上杉景勝(うえすぎ かげかつ)方の武士により殺されます。
一方の晴氏の方は命こそ助けられますが、次男で氏康の妹が産んだ義氏(よしうじ)に公方の座を譲ることとなり、相模国の波多野(神奈川県秦野市)に幽閉されてしまいます。
一度は古河への復帰が許されますが、嫡男の藤氏(ふじうじ)による義氏打倒の陰謀が発覚し、再度拘束され一生を終えます。
参考本
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