源義仲VS源頼朝、なんでこんなに仲が悪い?粟津の戦い

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スマイリーです。折角なので連続で書きます。

今日は粟津の戦い 1184年1月20日。

この戦は、治承・寿永のと言われる1180年から1185年にかけての6年間にわたる内乱の1つです。

とは言え、戦と言えるものではありません。

何故かというと、元々の戦力が圧倒的に違います。

両軍の戦力比較

源頼朝の代理、源範頼(みなもとの のりより 頼朝の弟) 数千騎。

対して一方の源義仲(みなもとの よしなか 頼朝の従兄弟) 数騎。

これでは戦闘になりません。

この戦は、同日にあった宇治川の戦いの掃討戦になります。

最後まで残った義仲と家来は、義仲が戦死したため、家来も自害して全滅すると言った結果で終わりました。享年31歳

源義仲の挙兵からの経緯

源義仲は、1183年7月、平氏に対する不満が高まる中で、真っ先に信濃国(しなののくに 長野県)より京都に向かって進撃しました。

この時、数万騎と言われる兵力で入京して京都を占領しますが、すぐに後白河法皇(ごしらかわほうおう)と対立し、また京都での乱暴狼藉から人気を失ってしまいます。

11月には水島の戦いと言われる平氏との戦いで敗れてしまったため、法皇に見放されてしまい、関東で力を持ってきた源頼朝に法皇より「義仲を討つように」との命令が出されてしまいます。

これを機に頼朝は義仲を討つ大義名分を得た訳です。

そして弟の範頼・義経(よしつね)に命じ、戦わせたのが宇治川の戦いです。

この戦いも圧倒的な戦力差で義仲は大敗しました。

元々は同じ源氏で、平氏を滅ぼすという共通の目的を持っていたはずですが、両雄が並び立つことは出来ず、結局は平氏より先に滅びてしまいます。

義仲と頼朝の関係

もともと義仲と頼朝の間には父親の代からの確執があります。

義仲の父・源義賢(みなもとの よしかた)頼朝の父・源義朝(みなもとの よしとも)は異母兄弟です。(義朝が長男、義賢は次男)

2人の父・源為義は義賢の方に肩入れしていたようです。

その為、義賢を棟梁と看做し、関東に派遣して義朝側の勢力に対抗させようとしていました。

本来なら、長男を中心に一族を纏め上げた方が歴史的には上手く言ってるケースが多そうですが、為義はそうしませんでした。

義賢の勢力が強くなることをよく思わない源義平(みなもとの よしひら 義朝の長男)が義賢を襲い滅ぼしてしまいます。

義賢の子である義仲は幼少であったため、家来に守られて信濃国で育てられます。

この時から義仲とにとって頼朝側は親の仇でもあるわけです。

しかし、共通の敵である平氏を倒すためだけに、2人は手を結び、義仲は息子の義高(よしたか)を頼朝に人質として差し出します。

建前としては、頼朝の娘・大姫(おおひめ)の婿としての立場でしたが、親同士が敵対してしまったために危険を感じた義高は逃亡し捕まって殺されてしまいます。享年12歳

義高は妻の大姫とは仲が良かったようで、義高の死を知った大姫は病気になり、その後回復することもなく20歳で亡くなっています。

親の都合によって振り回された2人の人生が気の毒です。

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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