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5月28日の今日は何の日?
業平忌(なりひらき) 880(元慶4)年 在原業平(ありわらの なりひら)の命日。
在原業平とは?
在原業平像
天長2年(825年)~元慶4年5月28日(880年7月9日)
平安時代の貴族で歌人で六歌仙・三十六歌仙の一人にあたります。
父は阿保親王(あぼしんのう)母は伊都内親王(いとないしんのう)の五男だったため、在五中将とも呼ばれています。
業平は父方をたどれば平城天皇(へいぜいてんのう)の孫、桓武天皇(かんむてんのう)の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたります。
このように皇族の中でも非常に血統の良い生まれでした。
しかし、大同5年(810年)に平城太上天皇の変(へいぜいたいじょうてんのうのへん)が起こり、祖父の平城上皇が嵯峨天皇(さがてんのう)と対立してしまいます。
因みに平城太上天皇の変は以前は薬子の変(くすこのへん)と呼ばれてました。
平城上皇が藤原薬子(ふじわらの くすこ)を寵愛し、弟の嵯峨天皇と争いますが、敗れて、上皇は出家し、薬子と兄の藤原仲成(ふじわらの なかなり)が処罰された有名な事件です。
阿保親王にも処罰がおよび太宰権師(だざいごんのそつ)に左遷されてしまします。
天皇の系統も嵯峨天皇の子孫に移ってしまい、天長3年(826年)に父・阿保親王の上表によって臣籍降下(しんせきこうか・皇族の位を離れ、臣下の籍に入ること)し、兄らと共に在原の姓を名乗りました。
業平の経歴
業平は仁明(にんみょう)、文徳(もんとく)、清和(せいわ)陽成(ようぜい)の4代の天皇に仕えています。
仁明天皇の時代には、蔵人(くろうど)として天皇の身近に仕え、無位から従五位の下にまでなりますが、文徳天皇の時には出世せず、不遇な時期を過ごします。
清和天皇の時代になると再び出世し、従四位の下にまでなります。
陽成天皇期でも昇進し、最終的には元慶元年(877年)に従四位の上、元慶3年(879年)に蔵人頭(くろうどのとう)に叙任されました。
業平の人物像
公卿としては皇族出身の割には、従四位の上どまりでしたが、歌人としては有名です。
古今和歌集には30首、勅撰和歌集には90首近くが入集しています。
また、文徳天皇の皇子惟喬親王(これたかしんのう)に仕え和歌を献上しています。
子の棟梁(むねはり)・滋春(しげはる)孫の元方(もとかた)も歌人として知られています。
業平は容姿端麗で「伊勢物語」の主人公とされています。
伊勢物語では多くの高貴な女性達との禁忌な恋が語られ、物事に拘らず奔放なことから、反体制的な貴公子のイメージがあります。
業平が枕を共にした女性は若い娘から上は99歳まで、その数は3733人と伝えられ、才女の小野小町も名を連ねています。
そんなイメージの割には、紀有常(きの ありつね)の娘を妻とし、棟梁・滋春の2人の息子と娘1人しか見られませんね。
業平ゆかりの地
奈良市法蓮町にある不退寺(ふたいじ)は仁明天皇の勅命による祈願によって創立されました。
奈良には阿保親王や業平も住んでいたと言われています。
京都市西京区にある十輪寺(じゅうりんじ)は業平が晩年住んだと言われる寺で、業平寺とも呼ばれています。
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