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6月3日の今日は何の日?
毛利家の備中高松城を攻めていた羽柴秀吉が毛利方への使者を捕らえ、本能寺の変の一報を知る。
歴史に「もし」はつきものですが、この使者が毛利方に届いていたら、もしくは高松城の落城が遅れていたら、
あと、同日に柴田勝家(しばた かついえ)が攻めていた上杉方の魚津城が落城していなかったら、
全然歴史は変わってたでしょうね。
今回は、羽柴秀吉の高松城攻めです。
戦国期の備中(びっちゅう)地方
戦国時代まで備中国(岡山県)は守護が細川氏でした。
しかし、細川氏の力が衰退しており、国人領主(こくじんりょうしゅ その土地に土着していた領主)の中で三村氏が力も持ってきていました。
三村家親(みむら いえちか)は尼子氏に代わり、中国地方を制覇した毛利氏に近づいて、備前国(びぜんのくに)・美作国(みまさかのくに)(どちらも岡山県)まで力を広げますが、浦上氏の傘下にあった宇喜多直家(うきた なおいえ)に暗殺されます。
そして、明善寺合戦(みょうぜんじかっせん)に敗れると三村氏は衰退し、毛利氏により滅ぼされます。
その為、三村氏の傘下にあった城主の多くは毛利氏を頼っていきます。
備中高松城の城主となった清水宗治(しみず むねはる)もその一人です。
清水宗治
その頃には、織田信長(おだ のぶなが)が上洛して、反対勢力を滅ぼし、第15代将軍足利義昭(あしかが よしあき)を京都から追放していました。
毛利氏と信長の関係は毛利氏当主が元就(もとなり)の頃は良好でしたが、輝元(てるもと)の時代になると義昭を庇護し、さらに信長最大の敵となった石山本願寺とも同盟を結んで敵対の態度を強めていきます。
その為、1578年に信長は羽柴秀吉(はしば ひでよし)を総大将とする中国攻めを開始します。
秀吉はまず播磨国(はりまのくに 兵庫県)へ進出すると、黒田官兵衛(くろだ かんべえ)の居城・姫路城を拠点に小寺氏(こでらし)、赤松氏(あかまつし)らを服従させ支配を固めます。
ところが、信長に従属していたはずの荒木村重(あらき むらしげ)が摂津国(せっつのくに 大阪府と兵庫県の一部)で反乱を起こします。(有岡城の戦い)
播磨国でも小寺氏や別所氏(べっしょ)が反旗を翻したため、秀吉は制圧に苦労させられます。
別所氏を滅ぼした三木合戦では、腹心の竹中半兵衛(たけなか はんべえ)を病気でなくし、上月城の戦いでは尼子勝久(あまご かつひさ)らを失います。
秀吉は播磨を制圧すると、但馬国(たじまのくに 兵庫県)因幡国(いなばのくに 鳥取県)まで進出し、山名豊国(やまな とよくに)を降参させ、鳥取城の戦いで毛利方の吉川経家(きっかわ つねいえ)を破り、弟の秀長(ひでなが)に山陰地方へ侵攻させます。
宇喜多直家は当初は毛利氏の傘下として、織田寄りの主君・浦上宗景(うらかみ むねかげ)を追放していましたが、織田氏と秀吉の力を知り、毛利氏を見限ります。
直家は天正9年(1581年)に病没し、幼少の子の宇喜多秀家(うきた ひでいえ)が跡を継いで秀吉の猶子となったことで、備中は秀吉の傘下となりました。
この状況下で高松城の戦いが勃発しました。
秀吉の水攻め
宇喜多秀家が領する備前岡山から先は毛利家の勢力範囲だったため、備前・備中の国境地帯で攻防が広げられます。
天正10年(1582年)3月15日、秀吉は姫路城から2万の兵を引き連れ、備中へ向け出陣します。
途中で宇喜多氏のかつての居城であった亀山城(別名・沼城)で宇喜多氏の動向を探り、味方すると確認すると宇喜多勢を加え、3万の軍勢で備中に入ります。
備中高松城は低湿地を利用した平城で、鉄砲・騎馬戦法ににも強く、城主の清水宗治が3千~5千と言う兵力で立て籠っており、容易には攻め落とせませんでした。
その為、秀吉は周囲の小城を攻め落とし、4月15日には3万の大軍で包囲し、2回にわたり攻撃しますが敗退しています。
しかも毛利輝元が4万近い大軍で接近しつつあり、秀吉は信長に援軍の使者を向かわせます。
信長からは明智光秀(あけち みつひで)を援軍に送るという返事を得たものの、1日でも早く備中高松城を落城させよと言う命令を受け、水攻めを行うことを決定します。
秀吉は即座に堤防工事に着手し、東南約4km、高さ8m、底部24m、上幅12mという堅固な長堤を作り、足守川の水をせき止めようとします。
工事には士卒や農民を動員し、非常に高額な報酬を与えた為、5月8日からわずか12日で完成してしまいます。
この時期の梅雨で降り続いた雨により足守川が増水し、200haの湖が出現し高松城は孤立します。
城兵側はこの奇策に動揺し、物資の補給をたたれたこと、毛利氏の援軍が来れないことも重なり士気が低下していました。
毛利輝元は5月21日になって猿掛城に本陣を置き、吉川元春(きっかわ もとはる)は高松城に近い岩崎山、小早川隆景(こばやかわ たかかげ)はその南の日差山に着陣します。
しかし、その時には堤防は完成しており、身動きも取れず、信長の援軍もやってくることから、毛利氏は秀吉との講和を決意します。
和睦の成立から中国大返しへ
毛利方は安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)を黒田官兵衛の元に派遣し、五ヵ国の割譲と城兵の生命保障を条件に和議を提示します。
しかし、秀吉が五ヵ国割譲と清水宗治の切腹を条件としたため、交渉は物別れに終わります。
毛利方は宗治に対し、救援が難しいため降伏するように伝えますが、これには宗治が拒否します。
再度、安国寺恵瓊を高松城に送り、宗治を説得させますが、自らと兄・弟・小早川からの援将の命を差し出す代わりに城兵の命を助けるようにとの嘆願書を恵瓊に託します。
丁度この時、6月3日に明智光秀から毛利家に送られた使者を秀吉方が捕まえ、本能寺の変で信長が死亡した知らせを知ります。
秀吉は黒田官兵衛と合議し、一刻も早く毛利氏と和睦し、光秀を討つ方針を固めます。
秀吉方はこの信長の死亡の事実毛利方に知られないように徹底的に隠しました。
翌6月4日に安国寺恵瓊を呼び、五ヵ国から三カ国への譲歩と宗治の切腹を条件に提示し、毛利方もやむなく受け入れます。
この条件の人質として、毛利方からは一族の吉川広家(きっかわ ひろいえ)と小早川秀包(こばやかわ ひでかね)、羽柴側からは森重政(もり しげまさ)・高政(たかまさ)兄弟が送られます。
宗治は秀吉から送られた酒と肴で別れの宴を行い、城内の清掃を命じ、身なりを整えます。
その後、宗治ら4人は秀吉から差し向けられた小舟に乗って秀吉の本陣まで漕ぎ、杯を交わし、そして舞を踊った後「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句をしたため、自害します。
残りの4人も自害し、介錯役の侍も自害して果てます。
秀吉は、毛利軍の出方を一日見極めた上で、6日の昼過ぎには京都へ向け軍勢の移動を開始します。
高松城には杉原家次(すぎはら いえつぐ)入れて備えさせ、山陽道を東に向かいました。
なお、毛利方が本能寺の変を知ったのは、秀吉の撤兵の翌日でした。
こうして秀吉が戻り、光秀を山崎の戦いで破ったことにより、信長の後継者として進むことができました。
高松城のその後
この落城の後、高松城には宇喜多氏の家老・花房正成(はなふさ まさなり)が入ります。
正成は関ヶ原の戦いで主人に反して徳川家康に味方した為、旗本として取り立てられます。
数年はここに陣屋を構えますが、正成が備中国阿曽へ移ったため高松城は廃城となりました。
現在は高松城二ノ丸址に玄妙寺という寺が建立されており、その境内内部が宗治自刃の場所とされており、石碑が立っています。
スマイリー
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