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8月26日の今日は何の日?
保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島へ流される。
源為朝(みなもとの ためとも)
保延5年(1139年)-嘉応2年4月6日(1170年4月23日)?
源為義(みなもとの ためよし)の八男で、異母兄弟に義朝(よしとも 頼朝や義経らの父)がいます。
有名な弓の使い手ですが、暴れ者だったようで、13歳の時に父に勘当され九州へ追放されます。
2012年に放送された大河ドラマ「平清盛」でも野蛮人みたいに描かれてましたね。
九州に渡ると、尾張権守家遠という人物の後見で、豊後国(ぶんごのくに 大分県)に住み、肥後国(ひごのくに 熊本県)阿蘇郡の平忠国(たいらの ただくに)の娘婿となります。
その後、自らを鎮西総追捕使(ちんぜいそうついぶし 九州での警察・軍事を司る役職)と称し、3年のうちに九州を平定してしまいました。
香椎宮の神人が為朝の狼藉(ろうぜき)を訴えた為、久寿元年(1154年)に朝廷より出頭の命令が出されます。
この時、為朝は命令に従いませんでしたが、久寿2年(1155年)に父・為義が解官(げかん 官職を解任されること)されたため九州から家来28騎を率い上洛します。
保元の乱
この頃の天皇家は複雑でした。
鳥羽法皇(とばほうおう)がおり、崇徳上皇(すとくじょうこう)がおり、そして近衛天皇(このえてんのう)がいましたが、久寿2年(1155年)7月23日に近衛天皇が崩御します。
後継者として崇徳上皇の皇子の重仁親王(しげひとしんのう)が有力だったのですが、守仁親王(もりひとしんのう 後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(まさひとしんのう)が即位しました(後白河天皇)。
(崇徳上皇、近衛天皇、後白河天皇は兄弟にあたります。)
そして、後白河天皇の新体制となりますが、保元元年(1156年)5月に今度は鳥羽法皇が病に倒れ、1か月後の7月2日には崩御します。
鳥羽法皇が崩御すると、治天の君(事実上の君主)の座を巡って、崇徳上皇と後白河天皇の対立が避けられない状態となります。
両陣営が、それぞれ名のある武士を招く中、源為義は崇徳上皇側の大将として招かれました。
これは為義が上皇側の藤原頼長(ふじわらの よりなが)の父・忠実(ただざね)の家人であったためです。
為義は老齢を理由に再三辞退しますが、遂に承諾させられ、為朝を含む6人の息子を引き連れ、崇徳上皇の御所に参上します。
為朝以外の5人の兄弟は、
四男・頼賢(よりかた)五男・頼仲(よりなか)六男・為宗(ためむね)七男・為成(ためなり)九男・為仲(ためなか)です。
一方の長男・義朝は後白河天皇側に属します。
元々義朝は為義と不仲であり、長男でありながら為義の後継者と看做されず、一時は次男の義賢(よしかた)が後継者候補でした。
義朝は関東に力を持っており、それに対抗するため、為義は義賢を関東に送り込みますが、義賢は義朝の長男・義平(よしひら)に討たれていました。
また、為義自身も官位で義朝に抜かれており、関東の武士たちは義朝に付いて天皇側に味方します。
その為、平清盛(たいらの きよもり)一族、義朝らが味方についた天皇側に比べ、上皇側は数が少なく圧倒的に不利でした。
為朝は7月11日の軍議で夜襲を提案しますが、藤原頼長に反対され、御所の西門を守ります。
その夜、天皇側が夜襲をしかけ、平清盛の軍勢が攻め寄せてきますが、為朝は自慢の強弓で清盛勢を追い返し、怖気づいた清盛は部署を変え北門へと向かいます。
それに代わり、義朝勢が押し寄せますが、為朝は28騎で義朝の家来に斬り込みをかけ、家来はたまらず逃げ出しました。
次に大庭景義(おおば かげよし)・景親(かげちか)兄弟が為朝に挑みかかりますが、景義は膝を矢で射られ、落馬したところを景親に助けられ逃げ帰ります。
義朝勢と為朝勢は激しく戦いますが、為朝勢は28騎のうち23騎が討ち死にし、義朝勢も200騎のうち53騎が討たれてしまいます。
他の門でも激戦が続き、容易に勝敗が決しませんでしたが、義朝が火攻めを求め、後白河天皇もこれを許したため、御所は炎上し、崇徳上皇側は大混乱に陥ります。
その為上皇と藤原頼長は脱出し、為義・為朝ら武士も各々落ちていきます。
為義は息子たちと共に東国で再挙を図ろうとしますが、弱気になり出家して降伏しようと決めます。
為朝は反対しますが、結局為義は出頭して降伏します。
為義は義朝が自分たちを助けることを期待していましたが、結局許されず、息子達と共に命令により義朝によって処刑されます。
これには義朝とライバル関係にある平清盛らの策謀があったとされています。
平氏でも、清盛の叔父の忠正(ただまさ)は4人の子と崇徳上皇に味方していました。
しかし、清盛と忠正は仲が良くなく、清盛が忠正一家を処刑することにより、義朝に父・兄弟を殺させ源氏の力を弱めさせようとしたものです。
これによって平氏の力が強くなりました。
また、一人逃げていた為朝は、近江国坂田(おうみのくに 滋賀県)に隠れますが、病気になり湯治していたところを密告により、裸のまま抵抗できずに捕まってしまいます。
伊豆大島へ島流し
為朝は処刑されるところでしたが、武勇を惜しまれ助命されます。
8月26日に肘を外し、弓を射ることができないようにされて伊豆の大島に流刑とされます。
しかし、やがて傷も癒えると再び暴れ始め、島の代官の娘婿となり、伊豆諸島を従え、年貢を出さなくなります。
伊豆諸島を所領とする工藤茂光(くどう しげみつ)を恐れた代官は密かに年貢を納めますが、それを知った為朝は怒り代官の手の指を切ってしまいます。
やはりイメージ通り、気性の荒い人みたいですね。
伊豆大島に流されて10年後の永万元年(1165年)には為朝は大男ばかりが住む鬼ヶ島へ渡り、この島を加えた伊豆7島を支配します。
嘉応2年(1170年)、工藤茂光は上洛し、為朝の乱暴狼藉を訴え、討伐の院宣が下り、同年4月に茂光は伊藤氏・北条氏らと500余騎・20艘で攻め寄せてきます。
抵抗しても無駄と悟った為朝は、9歳になる我が子を刺し殺し、自害しようとしますが、せめて一矢だけでもと思い、軍船に向け矢を射ると、見事に命中し船は沈没します。
そして館に戻ると、柱を背に腹を切って自害します。
追討軍は為朝を恐れなかなか上陸しませんでしたが、加藤景廉(かとう かげかど)と言う武士によって、すでに自害してると見極められ、薙刀で首をはねられてます。享年32
為朝伝説
剛勇無双で謳われた為朝は、各地で様々な伝説が残されています。
・琉球国(りゅうきゅうこく 沖縄県)の正史である「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」や琉球国の歌謡集「おもろさうし」、曲亭(滝沢)馬琴の「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」では、為朝は琉球へ逃れ、その子が初代琉球王・舜天(しゅんてん)になったとされています。
また、この伝承に基づき、大正11年(1922年)には沖縄県今帰仁村運天港(おきなわけん なきじんそん うんてんこう)近くに為朝上陸の碑が建てられました。
その表には「源為朝公上陸之跡」と刻まれ、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎(とうごう へいはちろう)の名が刻まれています。
源為朝公上陸碑
・為朝の甥である義経は八男でしたが、源氏の勇者である為朝に遠慮して九郎義経と名乗ったと言われています。
・伊豆大島に流刑となっていた為朝が矢を射たところ海を超え、鎌倉の材木座海岸まで届き、矢が届いたところから水が湧き、井戸ができたそうです。
この場所が現在の六角ノ井といわれています。
・横浜市港南区上大岡には「八郎ヶ谷」と呼ばれる一帯があり、そこに為朝が隠れ住んだと言われています。
その崖の上に「為朝の祠」があり、今でも4月25日には近隣の人が供養しています。
為朝の祠
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