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今日は何の日?
1557年4月3日大内義長(おおうち よしなが)が毛利元就(もうり もとなり)に攻められ自害し、大内氏は滅びる。
大内義長の出身は?
大内義長は1532年(天文元年)、豊後(大分県)の大名・大友義鑑(おおとも よしあき)の次男として生まれています。
実兄は義鎮(よししげ)、のちの宗麟(そうりん)です。
なんだ、大内氏の出身ではないんですね。
とはいえ、母は大内家16代当主・大内義隆(おおうち よしたか)の姉なので、大内家と関わりないわけではありません。
むしろ義隆の甥となりますね。
当時、当主の義隆にはなかなか実子が生まれませんでした。
そこで、まず最初に、養嗣子(相続権のある養子)としたのが、土佐(高知県)の一条房冬(いちじょう ふさふゆ)の子であった大内晴持(おおうち はるもち)です。
この人の母も大内義隆の姉でしたので、同じく義隆の甥という事になります。
しかし、1543年(天文12年)の大内義隆と尼子晴久(あまご はるひさ)との戦いに晴持も同行して大敗し、晴持は敗走中に死亡してしまいます。(第一次月山富田城の戦い)
この為、義長が猶子(ゆうし 養子と似ているが実子扱い)として、当時の室町幕府12代将軍・足利義晴(あしかが よしはる)から「晴」の一字を頂き、晴英(はるひで)となのったのでした。
将軍から名を頂けるというのは、相当な栄誉でした。
当然、大内氏での地位が高まり、次期当主になれるはずでした。
しかし1545年(天文14年)嫡男の義尊(よしたか)が誕生してしまいます。
猶子関係を解消された晴英は、帰国してしまいます。
傀儡の当主となる
大内氏当主になる機会を失ったと思った晴英でしたが、再び機会が巡ってきます。
1551年(天文20年)5月、大内氏の重臣であった陶隆房(すえ たかふさ)が主君の義隆に対し謀反を企て、晴英を新当主とすることを望んだのです。
晴英の兄・大友義鎮は傀儡として擁立されるだけだとこれに反対しますが、晴英は当主の座を望むことを主張した為、義鎮も認めます。
9月に隆房は謀反を実行し、結果、義隆は長門(ながと 山口県西半分)の大寧寺で自害し、義尊も殺されます(わずか7歳)。(大寧寺の変)
大内家で混乱が収束した翌年3月3日、晴英は山口に入り大内氏17代当主として擁立されました。
また、隆房は晴英を君主として敬う事を内外に知らしめるため、晴英から「晴」の一字を頂き晴賢(はるかた)と改名します。(ここより陶晴賢で統一します)
しかし、家臣が一字を頂くなら「英」のはず、ここでも両者の力関係が表れていますね
1553年(天文22年)には室町幕府13代将軍・足利義藤(あしかが よしふじ) 後の義輝(よしてる)から一字を頂き、義長と改名します。(これより義長で統一します)
同年閏1月27日、義長は従五位下左京大夫に叙任されますが、あくまで実権は晴賢が握っていました。
1554年(天文23年)3月には総大将として三本松城主・吉見氏を討伐のため出陣しますが、指揮は晴賢が執っています
1556年(弘治元年)には明に勘合貿易の再開を求め使者を派遣しますが、明からは正式な大内家当主としての承認を拒まれています。
義長の最期
1555年(弘治元年)晴賢が厳島の戦いで敗死してしまいます。
元々外様の上、一度猶子関係を解消されていた義長の求心力は低いものでした。
ただでさえ、晴賢の謀反やその他の内訌で弱体化していた大内氏はどんどん衰退していきます。
そこで義長は兄・義鎮に援軍を求めますが、義鎮は毛利氏と大内領分割の密約を結んでおり、応じませんでした。
また、義鎮は大内氏の家督にも興味を示さず、野心のない事を元就に約束いたようです。
こうして後背の安全を得た元就は、1557年(弘治3年)3月、山口へ侵攻します。
義長も寡兵で良く戦いますが、高嶺城を放棄し、重臣の内藤隆世(ないとう たかよ)の且山城(かつやまじょう)へ敗走します。
しかし、すぐ毛利軍に且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件に開城し自害します。
義長は長門長福寺(現在の功山寺)に入ったあと毛利軍に自刃を強要され、4月3日に自害します。享年26
辞世の歌は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」
義長の自害により大内氏は実質上滅び、後に大内一族の大内輝弘(おおうち てるひろ)が大友氏の支援を受け大内氏再興を試みますが、結局滅ぼされます。(大内輝弘の乱)
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コメント
陶晴賢、毛利元就の小説で何回も読みました。興味ある人です。
陶晴賢は毛利元就にはつきものの人ですよね。西国一の侍大将と言われるだけあって毛利氏との戦いで勝っていたら、また歴史も変わってましたね。