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今日は何の日?
1062年9月17日 源頼義が安倍貞任を厨川で破り、前9年の役が終結。
古代、東北地方の住人は蝦夷(えみし)と呼ばれ、異民族の扱いでした。
しかし、時が経つにつれ、朝廷の支配が及ぶようになり、従属した人たちを俘囚(ふしゅう)と呼んでいます。
戦乱の始まり
陸奥国(むつのくに 青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県東北部)の豪族・安倍氏は奥六郡に城砦を築き、俘囚長として従属しながらも、半独立勢力を形成していました。
11世紀半ばになると、安倍氏が朝廷への貢租(貢ぎ物、租税)を怠ってきました。
その為、時の陸奥守(陸奥国の国司)だった藤原 登任(ふじわらの なりとう)が永承6年(1051年)に安倍氏の懲罰を試みようと戦闘を開始します。(鬼切部の戦い)
しかし、安倍氏に敗れ、登任は更迭されてしまいました。
後任としてやってきたのは、源頼義(みなもとの よりよし)です。
源頼義と言うと、知名度が低いですが、源義家(みなもとの よしいえ)の父と言ったら分かるかもしれませんね。
永承7年(1052年)後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)の祖母・上東門院(じょうとうもんいん 藤原道長の娘・彰子)の病気回復祈願の為に大赦が行われ、安倍氏も罪を赦されます。
安倍氏族長の頼良(よりよし)は源頼義を接待し、名が頼義と同じ発音である事を遠慮して、頼時(よりとき)とまで改名し従いました。
また、天喜元年(1053年)には、頼義は鎮守府将軍となります。(つまり、陸奥守と兼任)
阿久利川事件
しかし、天喜4年(1056年)2月に事件が起きます。
頼義の国司としての任期が切れる頃、頼義が鎮守府のある胆沢城(いさわじょう)から国府のある多賀城(たがじょう)へ戻ろうと阿久利川河畔で野営していると、「頼義の部下が夜討ちに遭い損害が出た」と報告が入ります
この疑いがかけられたのが、安倍頼時の子・貞任(さだとう)です。
頼義は怒り、貞任の出頭を命じますが、頼時は拒否した為、戦が再開されます。
なお、これには陰謀説があり、頼義が頼時を陥れる為だったとも言われています。(従順している頼時が、任期が切れて出ていく頼義を襲って怒らせる理由がないですからね)
また、頼時の娘婿に平 永衡(たいらの ながひら)という武将がいましたが、在庁官人(ざいちょうかんじん)として多賀城に勤務していました。(つまり頼義は上司にあたります)
ただ、永衡は鬼切部での戦いでは頼時についていた為、安倍方に寝返るのではと思われていました。
そこへ、永衡のつけている兜がきらびやかで目立つ為、敵への内通の合図との讒言を受け、それを信じた頼義に殺害されてしまいます。
同じく頼時の娘婿であった藤原経清(ふじわらの つねきよ)という武将も微妙な立場となります。(永衡と経清は相婿関係)
頼義の態度に疑念を抱いた経清は安倍方に走ります。
これにより頼義は大事な部下を2人も失いました。
安倍頼時の死
天喜5年(1075年)一進一退の頼義は安倍氏を挟撃しようと、部下を派遣して津軽地方の俘囚で頼時の従弟にあたる安倍 富忠(あべの とみただ)の調略に成功します。
これに慌てた頼時は、7月に富忠を思いとどまらせようと津軽に向かいますが、富忠の伏兵に襲われ重傷を負い、本営の衣川の目の前の鳥海柵(とのみのさく)で死亡してしまいました。
そして頼時の跡は貞任が継ぎます。
黄海の戦い(きのみのたたかい)
頼義は9月に頼時の戦死を朝廷に報告しますが、論功行賞(褒美)を受けることが出来ませんでした。
そこで11月に頼義は再び出撃しますが、兵力は最大に見積もっても2500程度でした。
一方、安倍氏は河崎柵に4000程度の兵力を集め、黄海で頼義軍と交戦します。
冬の遠征で物資も不足してた上、兵力も劣っていた頼義軍は安倍軍に大敗し、頼義は息子・義家を含む7騎でからくも離脱します。
清原氏参戦で反撃へ 安倍氏滅亡
頼義が自軍の勢力回復を待つ間に、安倍氏は衣川の南にまで勢力を伸ばすようになり、税も朝廷の赤札でなく、経清の白札で徴収するようになっていました。
また、2回の敗戦により兵の補充も思うようにできずに、頼義は関東・東海・近畿の武士に働きかけを行い兵力の増強に努めます。
康平5年(1062年)春、任期の切れた頼義の後任の陸奥守として、高階 経重(たかしなの つねしげ)が着任しますが、地元役人らは頼義に従い経重に従わなかったため、経重は京に戻り、再び頼義が陸奥守に任命されます。
苦戦を強いられていた頼義は、出羽地方(山形県・秋田県 東北部は除く)に力を持っていた同じ俘囚の清原氏を頼ります。
頼義は、族長の清原光頼(きよはらの みつより)に「奇珍の贈物」を続け、また朝廷の命令を盾に参陣を強く要請します。
参戦を渋る光頼が、ついに7月に弟・武則(たけのり)を総大将として派遣します。
これにより、朝廷の兵力は1万程度となります。(そのうち頼義軍は3000程度。)
清原氏の参戦により有利となった朝廷軍は、9月17日に厨川柵(くりやがわのさく)・嫗戸柵(うばとのさく)を落城させます。(厨川の戦い)
重傷で捕らえられた貞任は、巨体を盾に乗せられ頼義の面前に引き出されますが、一瞥しただけで息を引きとります。
頼義の恨みが深かった藤原経清は、投降した後、苦痛を長引かせるため錆びた刀で斬首されます。(これだけでも頼義の怒りが分かりますね。)
これにより安倍氏は滅亡しました。
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スマイリー
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コメント
貞任は、デブだったんっすね
えっ、巨体=デブ?