領土拡大を目指し戦い続けた甲斐の虎・武田信玄の一生 前半

今日は何の日?
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今日は何の日?

1573年(元亀4年)4月12日は武田信玄の命日です。

 

 

武田信玄(たけだ しんげん)と言えば、武田家の中で最も有名な人でしょう。

甲斐(かい 山梨県)の戦国大名、武田氏の19代目の当主です。
通称 甲斐の虎

信玄の出生

信玄は1521年(大永元年)11月3日に出生しています。

父は武田信虎(たけだ のぶとら)、母は正室の大井夫人(おおいふじん)

出生時、武田氏は駿河(するが 静岡県中部・東部)の大名・今川氏(いまがわし)に攻められており、本拠の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)でなく、要害山城(ようがいやまじょう)または積翠寺(せきすいじ)での出生と言われています。

信玄には兄がいた!

信玄は長男だと思われがちですが、実は4歳上の兄がいました。

名は竹松(たけまつ)

しかし、母の名が分からないので、庶子でしょうね。

その竹松も7歳で死んでますので、信玄が嫡男となったようです。

もし、竹松が死んでいなかったら、家督相続で揉めていたかもしれません。

しかし、信玄に同母弟の武田信繁(たけだ のぶしげ)が生まれると、信虎の愛情は信繁に移っていったようで、関係が悪くなった親子関係は、将来、信虎追放の一因ともなっています。

信玄の結婚・元服

信玄は1533年(天文2年)に扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉 朝興(うえすぎ ともおき)の娘を正室として迎えています。

しかし、その娘は翌年出産の際、子と共にに死亡してしまいました。

1536年(天文5年)3月には、信玄は元服を行います。

当時の将軍・足利義晴(あしかが よしはる)より一字を頂き、晴信(はるのぶ)と名乗っています。

元服後には継室として、左大臣・三条公頼(さんじょう きんより)の娘・三条夫人(さんじょうふじん)を迎えました。

同年11月には、信濃(しなの 長野県・岐阜県の一部)佐久郡の平賀玄信(ひらが げんしん)を攻め、初陣を勝利で飾っています。

信玄の野望の始まり 信濃平定へ

1541年(天文10年)海野平の戦いに参加し、その後、重臣の板垣信方(いたがき のぶかた)甘利虎泰(あまり とらやす)飯富虎昌(おぶ とらまさ)らと共に信虎を甲斐から追放し、19代当主となります。

父・信虎の頃は周りの今川氏・山内上杉氏(やまうちうえすぎし)・扇谷上杉氏・諏訪氏(すわし)ら大名と同盟し、敵は北条氏(ほうじょうし)だけでしたが、信玄はこの方針を転換し、まずは信濃へと侵攻します。

1542年(天文11年)、信玄は諏訪氏の一族で諏訪氏に不満を持っていた高遠頼継(たかとう よりつぐ)と諏訪領へ侵攻します。

桑原城の戦いで諏訪氏とは和睦しますが、当主の諏訪頼重(すわ よりしげ)を甲府へ連行し、自害に追い込み諏訪領を制圧します。

しかも、頼重の娘・諏訪御料人(すわごりょうにん)を側室に迎えます。(親の仇を側室とする神経も分かりませんが)

因みに産まれた息子が後の武田勝頼(たけだ かつより)となります。

次に頼重の遺児を立てて(信玄が頼重を死へ追い込んだのに)、頼継と戦い(宮川の戦い)、頼継軍を撃破しました。

更に1545年(天文14年)4月には頼継の高遠城を落城させ、6月には福与城主の藤沢頼親(ふじさわ よりちか)を追放します。

父・信虎の時は敵だった相模(さがみ 神奈川県の大部分)の北条氏とは、1544年(天文13年)に和睦し、今川氏と北条氏の戦い(第2次河東の一乱)を仲裁することで両家に貸しをつくり、これが後年の三国同盟へと繋がります。

今川氏北条氏との関係が安定すると、本格的に信濃へ侵攻します。

最初のターゲットは志賀城の笠原清繁(かさはら きよしげ)という武将でした。

清繫は上野(こうずけ 群馬県)の関東管領・上杉憲政(うえすぎ のりまさ)に救援を要請し、憲政は援軍を送ります。

しかし、援軍は大敗してしまい、支援を失った志賀城は落城してしまいました。

武田軍は志賀城に籠城していた男女を生け捕りにし、奴隷として甲斐に送られたそうです。

また、同年には領国支配の為の分国法「甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)」を定めました。

信玄を2度も撃退 村上義清

しかし、志賀城での過酷な処置に信濃の武将たちは反発し、村上義清(むらかみ よしきよ)や信濃守護・小笠原長時(おがさわら ながとき)らと戦うこととなります。

1548年(天文17年)2月、信玄は義清と北信濃の上田原で激突しました。(上田原の戦い)

戦力は武田軍が村上軍を上回っていましたが、結果は重臣の板垣信方や甘利虎泰をはじめ多くの将兵を失います。

信玄自身も傷を負うという負け戦となってしまいました。

この隙をついて、4月に小笠原長時が諏訪に攻め込んできます。

しかし、7月に塩尻峠で小笠原軍を破り、大勝しています。(塩尻峠の戦い)

敗れた長時は本拠地の林城へ戻りますますが、翌年7月には林城を放棄して逃亡した為、信玄の中信濃地方の平定がなります。

1550年(天文19年)9月、信玄は義清の支城、砥石城を攻めます。

武田軍は7000、城方は500でしたが、城には以前落とした笠原方の残党が入っており、士気が盛んで落とすことができませんでした。

そうしているうちに、義清の本隊2000が援軍に来て挟み撃ちにあい、武将の横田高松(よこた たかまつ)を失うなどの大敗となります。(砥石崩れ)

信玄を苦しめた義清でしたが、1551年(天文20年)4月信玄の家臣・真田幸隆(さなだ ゆきたか)が調略により、砥石城を落城させると、1553年(天文22年)4月、義清は葛尾城を放棄して越後(えちご 新潟県)長尾景虎(ながお かげとら 後の上杉謙信 うえすぎ けんしん)の元へ逃れます。

こうして、信玄は北信濃を除く信濃平定すると、長尾氏との対決に向かうこととなるのです。

5回にわたる長尾氏との戦い 川中島の戦い

村上義清や北信濃の豪族の要請を受けた長尾景虎は、1553年(天文22年)4月、本格的に信濃へ出兵します。(第1次川中島の戦い)

武田軍は義清の葛尾城を落としますが、5月に村上軍に敗れ葛尾城を奪回されます。

8月には景虎に支援を受けた大井信広(おおい のぶひろ)が信玄に謀反を起こしますが鎮圧されています。

また、武田軍は9月に塩田城を落としたものの、先鋒が布施の戦いで撃破されています。このあたりは一進一退ですね。

景虎は信濃領内に侵攻し、諸城を落としますが、信玄は決戦を避けています。

その後は景虎も軍を動かすことなく、両軍とも撤退します。

信玄は外交面では今川氏や北条氏と関係改善を進め、1554年(天文23年)に嫡男・武田義信(たけだ よしのぶ)の正室に今川義元(いまがわ よしもと)の娘を迎え、甲駿同盟を強化しました。

また、自身の娘を北条氏康(ほうじょう うじやす)の嫡男・北条氏政(ほうじょう うじまさ)に嫁がせ甲相同盟を結びます。

これにより甲相駿三国同盟が成立し、長尾氏との対決に専念することができました。

信濃の反武田勢力を駆逐し南信濃地方を安定させると、東美濃(ひがしみの 岐阜県南東部)遠山氏(とおやまし)が武田氏に臣従した為、美濃の斎藤氏(さいとうし)と緊張関係が生じます。

1554年(天文24年)武田方であった善光寺の別当・栗田 永寿(くりた えいじゅ)が旭山城に立籠りました。

これに対し、景虎は裾花川(すそばながわ)を挟んだ対岸に葛山城を築城します。

信玄は川中島で200日に渡り長尾軍と対峙しますが、今川義元の仲介により和睦が成立し両軍は撤退します。(第2次川中島の戦い)

1557年(弘治3年)2月、信玄は調略で葛尾城を落とします。

景虎は反撃すべく出陣しますが、この時も信玄は決戦を避けています。(第3次川中島の戦い)

室町13代将軍・足利義輝(あしかが よしてる)甲越和睦御内書(ごないしょ 公文書)を発します。

これを受諾した景虎に対し、信玄は条件として信濃の守護職を要求し、信濃守護に任命されています。このあたりの信玄の交渉能力はしたたかさがありますね。

これまでの戦闘の結果、武田氏の勢力が北信濃地方に拡大しました。

この戦の後、信玄は出家します。「信玄」と名乗ったのはここからです。

1561年(永禄4年)4月、上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改名した景虎は北条氏の小田原城を包囲します。

信玄はこの間に海津城を築城し、上杉方の割ヶ嶽城(わりがたけじょう)攻め落とします。

北条氏の要請に応じ信濃へ出兵すると、輝虎も川中島の善光寺へ出兵しました。(第4次川中島の戦い)

5回のうち最大の激戦となったこの戦いは、弟で副将の武田信繫や重臣の室住虎光(もろずみ とらみつ)、足軽大将の山本勘助(やまもと かんすけ)らを失い、信玄自身も負傷するものでした。

この戦で信濃侵攻が一段落し、並行して行っていた西上野(にしこうずけ 群馬県高崎市)への侵攻を強めます。

飛騨(ひだ 岐阜県北部)江馬時盛(えま ときもり)江馬輝盛(えま てるもり)の親子争いが起こります。

武田氏は時盛を上杉氏は輝盛・三木氏(みきし)を支援して介入します。

1564年(永禄7年)6月・信玄は家臣の山県昌景(やまがた まさかげ)甘利信忠(あまり のぶただ)を派遣すると、輝盛・三木氏側は劣勢となり武田氏と通じます。

輝盛は飛騨先方衆として武田氏の家臣団に組み込まれました。

8月に武田軍の飛騨侵攻を防ぐため、政虎(謙信 けんしん)は川中島へ出兵しますが、信玄は決戦を避けて動かず、にらみ合いのまま終わりました。(第5次川中島の戦い)

更なる領土拡大へ

1557年(弘治3年)より川中島の戦いと並行して西上野へ侵攻していた武田軍でしたが、当初は芳しい結果を得られませんでした。

西上野には、山内上杉家の家臣・長野業正(ながの なりまさ)と言う名将ががおり、箕輪城で善戦していました。

しかし、業正が1561年(永禄4年)に死去すると、跡を継いだ長野業盛(ながの なりもり)を激しく攻め1566年(永禄9年)9月には箕輪城を落城させ西上野を領国化させます。

この後、箕輪城は対北条氏との最前線となります。

越中(えっちゅう 富山県)では有力国人である椎名康胤(しいな やすたね)が政虎の従弟・長尾景直(ながお かげなお)を養子に迎えていました。

一方、同じく有力国人の神保長職(じんぼう ながもと)は武田氏と同盟を結んで対抗します。

信玄と縁戚関係のある本願寺顕如(ほんがんじ けんにょ)も長職に味方し、越中一向一揆(えっちゅういっこういっき)が支援します。

この為、越中は武田氏と上杉氏の代理戦争となりました。

しかし、1568年(永禄11年)椎名康胤は武田氏の調略に応じ、上杉氏を離反します。

離反した康胤は武田氏家臣となり、越中先方衆に組み込まれています。越後の上杉氏は越中・信濃・上野の武田氏に囲まれる形となりましたね。

 

PART2へ続く

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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コメント

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