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今日は何の日?
1458年(長禄2年)11月20日は尼子経久の誕生日です。
尼子経久(あまご つねひさ)とは?
尼子経久は戦国時代の武将で、大名にまでなった人物で、11ヶ国の太守と呼ばれています。。
経久の父・尼子清定(あまご きよさだ)は出雲国(いずものくに 島根県東部)の守護代(守護の代理人)として京極政経(きょうごく まさつね)に仕えていました。
京極政経は出雲国・飛騨国(ひだのくに 岐阜県北部)・隠岐国(おきのくに 島根県隠岐郡)・近江国(おうみのくに 滋賀県)の守護に任命されていた大名です。
尼子氏も京極氏の分家であり、遡ると近江源氏の佐々木氏流れとなります。つまり、同族ですね。
経久は幼名を又四郎といい、出雲で生まれますが、幼少期は政経の人質として、京都の京極屋敷へ送られます。
家督相続
元服すると、政経から名の一字を頂き、経久と名乗ります。
5年の京都滞在生活後、出雲へ戻り、1478年(文明10年)までに家督を相続します。
家督を継承すると、地元の国人衆との結びつきを深くし、室町幕府の命令を無視して、政経の寺社領を押領(他人の所領を力ずくで奪い取ること)などし、独自の権力基盤を築きます。
しかし、こういった行動が、幕府・守護・国人衆の反発を生み、1484年(文明16年)には居城を包囲され守護代の職を剥奪されてしまいます。
その後、新しい守護代を滅ぼし、近江国でお家騒動が起こり敗れて下向してきた主君・政経と関係を修復します。
政経の死後、出雲大社の造営を行い、宍戸氏(ししどし)との婚姻を進め、また対立関係にあった塩冶氏(えんやし)を圧迫するなどして出雲の統治者としての地位を確立していきました。
因みに塩冶氏も佐々木氏の流れを汲む同族です。
政経は孫の吉童子丸(きちどうじまる)に家督を譲り、1508年(永正5年)に死去します。
政経は経久に吉童子丸の後見を依頼していましたが、吉童子丸は夭折(ようせつ 早死に)?かで消えてしまい、経久が事実上の出雲の主となったのでした。(私見ですが、これは怪しいですね。経久の陰謀のにおいを感じます)
勢力拡大
それからは、勢力拡大を図り、1511年(永正8年)には中国地方の大大名・大内義興(おおうち よしおき)に従い、船岡山の合戦に参加したとされています。
1512年(永正9年)には、備後国(びんごのくに 広島県東半分)の国人が大内氏に背いたため、大内氏の支援を行います。
この時期に、大内氏や細川氏との縁を深めようと、次男の尼子国久は細川高国(ほそかわ たかくに)から、三男の塩冶興久(えんや おきひさ)は大内義興から名の一字を受けています。
1513年(永正10年)、経久は弟の尼子幸久(あまご ゆきひさ)に伯耆国(ほうきのくに 鳥取県中部・西部)の南条宗勝(なんじょう むねかつ)を攻めさせ、長男の尼子政久(あまご まさひさ)には尼子氏に背いた桜井氏(さくらいし)を攻めさせます。
しかし、この戦で政久は戦死してしまい、悲しんだ経久は桜井氏一族を皆殺しにしたそうです。
1517年(永正14年)になると、大内義興の石見国(いわみのくに 島根県西部)の守護就任に納得できない、前石見守護・山名氏(やまなし)と手を結び、石見の大内方を攻撃しています。
また、備中国(びっちゅうのくに 岡山県西部)北部に力を持つ新見氏(にいみし)とも手を結び、三村氏(みむらし)を攻撃します。
1520年(永正17年)になると、経久の出雲国西部の支配が確立します。
一方で、国境を接する備後国(びんごのくに 広島県東半分)の山内氏(やまうちし)や安芸国(広島県西部)の宍戸氏とは対立を生んでしまいます。
特に山内氏の出雲国への影響は無視できないものとなっていました。
その為でしょうか、三男の興久の妻に山内氏の娘を迎え、娘を宍戸氏へ嫁がせています。
1521年(大永元年)以降、尼子氏は石見国へ侵攻し、安芸国へも手を伸ばしています。
1523年(大永3年)には、重臣の亀井秀綱(かめい ひでつな)の命令で、傘下にあった安芸国の毛利氏(もうりし)に大内氏の拠点・鏡山城を攻めさせ城を落としています。(鏡山城の戦い)
1524年(大永4年)、経久は今度は西伯耆に侵攻し南条宗勝を破ると、守護の山名澄之(やまな すみゆき)を敗走させ一晩で西伯耆を手に入れました。
敗北した伯耆の国人の多くは、因幡国(いなばのくに 鳥取県東部)・但馬国(たじまのくに 兵庫県の北部)に逃亡しました。
しかし、尼子方だった安芸武田氏(あきたけだし)らが大内氏に敗北し、毛利元就(もうり もとなり)が尼子氏との関係を解消し大内氏に鞍替えすると、安芸国内の勢力バランスが変わってしまいます。
毛利氏が離反したのは、毛利氏の後継争いに尼子氏が介入したことが原因だとされています。
1526年(大永6年)に伯耆・備後の守護であった山名氏が反尼子氏の態度を鮮明にし、尼子氏は大内氏と山名氏に挟まれて窮地に立たされます。(経久はあまりにも多くの者を敵にし過ぎたから当然でしょうね)
翌1527年(大永7年)に経久自ら備後国へ出兵しますが、大内氏重臣・陶興房(すえ おきふさ)に敗れ、尼子方だった備後国人の多くが大内氏へ寝返ってしまいまいました。
1528年(享禄元年)経久は再び備後国へ出兵し多賀山氏(たがやまし)の城を落としますが、同年5月には尼子方だった石見国の髙橋氏(たかはしし)が毛利氏らに滅ぼされてしまいます。
塩冶興久の乱(父子の不和)
そして、1530年(享禄3年)には三男の塩冶興久までが反尼子氏の態度を鮮明にします。
興久には、出雲大社・鰐淵寺(がくえんじ)・三沢氏(みさわし)・多賀氏(たがし)・山内氏らが味方についており、大規模な反乱となって興久側が有利でした。
興久、経久は共に大内氏に支援を要請しましたが、共倒れを狙った大内氏は、不利だった経久を支援します。
これにより立場が逆転しますが、興久側は何度も経久の攻撃を退けています。
しかし、1534年(天文3年)遂に鎮圧され、興久は山内氏の元に逃れた後、甥の晴久(はるひさ 政久の次男)の攻撃によって自害します。
興久の首は尼子氏へと送られますが、不和になっていたとはいえ自分の息子の哀れな姿に経久はどう思ったでしょうね?
その興久の遺領は、兄の国久が引き継ぎました。
同時期に隠岐の国でも反乱が起こっていますが、すぐに鎮圧されています。
同年、晴久は美作国(みまさかのくに 岡山県東北部)へ侵攻し、尼子氏の支配下におき、その後は東へ支配を拡大していきました。
経久の死
経久は1537年(天文6年)晴久に家督を譲ります。
そして、その年には大内氏が所有していた石見銀山を奪取します。
大内氏は大友氏との争いが続いていたこともあり、尼子氏は東部に勢力を拡大しようと、播磨国(はりまのくに 兵庫県南西部)守護・赤松晴政(あかまつ はるまさ)と戦い大勝します。
敗れた晴政は淡路へと逃亡しました。
1539年(天文8年)別所氏(べっしょし)が籠城する三木城が尼子方に寝返ったため、晴政は更に堺に逃亡します。
晴久は京都に上洛する構えを見せますが、大内氏が大友氏と和解すると、尼子氏との和議が破られ、石見銀山が奪回されてしまいます。
また、同年に尼子方の安芸武田氏の居城・佐東銀山城(さとうかなやまじょう)が落城し、当主の武田信実(たけだ のぶざね)が一時若狭国(わかさのくに 福井県南部)へ逃亡した為、晴久は出雲に撤退していきました。
大内氏との和議が完全に破綻した為、1540年(天文9年)、晴久は大内氏との早期決戦を目指し、武田信実の要請もあり、大内氏配下の毛利氏討伐に出陣します。
周囲の状況は尼子氏に有利であり、尼子軍は3万騎に膨らんだ大軍で吉田郡山城を包囲し決戦に備えます。(吉田郡山城の戦い)
しかし翌年、陶隆房(すえ たかふさ)率いる2万騎の大内援兵に敗れ、尼子氏は安芸での基盤を失いました。
そして、1541年(天文10年)11月13日、経久は月山富田城内で死去します。享年84
尼子氏の居城、月山富田城跡
スマイリー
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