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すでに5回が放送された、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
今更ながら、ずっと気になっていた事を書いていきたいと思います。
それは、タイトルを「鎌倉殿の13人」としたこと。
正直、北条義時(ほうじょう よしとき 演 小栗旬)の知名度では、視聴率的に無理かも(笑)。
しかし、13人てことは、残り12人が存在しますよね。
これが誰を指しているのか?
このタイトルを初めて聞いた時、僕は評定衆(ひょうじょうしゅう 鎌倉時代の役職)の元になった十三人の合議制を想像しました。
しかし、この合議制は、源頼朝(みなもと の よりとも 演 大泉洋)の死後、1199年に出来たものです。
ここでは、「鎌倉殿」を頼朝を指しているのか、源氏将軍・頼朝、頼家(よりいえ 演 金子大地 )、実朝(さねとも)までを指しているかで、誰が13人だったか変わってくると思います。
ここでは、「13人の合議制」の構成メンバーについて書いていきます。
「13人の合議制」構成メンバー
大江広元(おおえ の ひろもと)、中原親能(なかはら の ちかよし)、二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)、三善康信(みよし の やすのぶ)、梶原景時(かじわら かげとき)、足立遠元(あだち とおもと) 、安達盛長(あだち もりなが)、八田知家(はった ともいえ)、比企能員(ひき よしかず)、北条時政(ほうじょう ときまさ)、三浦義澄(みうら よしずみ)、和田義盛(わだ よしもり)そして北条義時です。
果たして、この13人がメインとなるんでしょうか?
中原親能、二階堂行政と八田知家は登場するのかも分かりませんが。
13人の経歴
まずは大江広元です。(演 栗原英雄)
久安4年(1148年)~嘉禄元年6月10日(1225年7月16日)
名目上のナンバー2
下級貴族の出ですが、鎌倉に下り頼朝の側近になると、官位では正四位下の位につき、義時よりも高い官位に登りつめます。
公文所(くもんじょ 鎌倉時代の役職)別当(長官)となり、政所(まんどころ)と改めるとそのまま別当へ就任しています。
頼朝没後の承久の乱(じょうきゅうのらん)でも、執権(しっけん 鎌倉幕府の役職)となった義時と協調し幕府軍を勝利に導いています。
中原親能
康治2年(1143年)~承元2年12月18日(1209年1月25日)
大江広元の兄
従五位下、京都守護(きょうとしゅご 鎌倉幕府の役職)を務める。
二階堂行政
生誕、死没とも不詳
藤原氏(ふじわらし)の流れで二階堂氏の祖
鎌倉幕府では、公文所寄人(職員)から政所令(政所の次官)を努めています。
実務官僚として大江広元を補佐しました。
三善康信(演 小林隆)
保延6年(1140年)~承久3年8月9日(1221年8月27日)
平安~鎌倉時代の公家
母が頼朝の乳母の妹だった関係から、流人であった頼朝に京都の情勢を知らせ挙兵に大きな役割を果たします。
頼朝が幕府を開いてからは鎌倉に呼ばれ、初代問註所(もんちゅうじょ 鎌倉幕府の役職)執事(しつじ 長官)となり、裁判実務の責任者となっています。
承久の乱では、病身で会議に参加し大江広元の出兵論を支持します。
同年に亡くなりました。
梶原景時(演 中村獅童)
保延6年(1140年)~正治2年1月20日(1200年2月6日)
梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏(かまくらし)の一族です。
祖先は源氏の家来であり、一族の大庭景親(おおば かげちか 演 國村 隼)とともに源氏に従っていました。
平治の乱で源義朝(みなもとの 義朝 頼朝の父)が敗死すると、平家側につきますが、石橋山の戦いで頼朝を助け信頼を得ます。(頼朝と戦って討たれた大庭とは明暗を分けましたね)
鎌倉幕府のは侍所(さむらいどころ 鎌倉幕府の役職)所司(しょし 次官)となり、長官だった和田義盛(わだ よしもり)が乱で死ぬとその後長官となります。
御家人たちの嫌われ者
頼朝には信頼が篤く、播磨国(はりまのくに 兵庫県南西部)備前国(びぜんくに 岡山県東南部・香川県小豆郡・直島諸島・兵庫県赤穂市の一部)美作国(みまさかのくに 岡山県東北部)備中国(びっちゅうのくに 岡山県西部)備後国(びんごのくに 広島県東半分)の5カ国の守護となります。
一方、讒言で多くの者を危機に陥れます。
源義経(みなもと の よしつね 演 菅田将暉)とはうまが合わず対立し、義経が滅亡する原因にもなっていますし、畠山重忠(はたけやま しげただ 演 中川大志)や結城朝光(ゆうき ともみつ)らも讒言の対象となりました。
このため、多くの御家人の怒り・不満をかっており、三浦義村(みうら よしむら 演 山本耕史)や和田義盛ら66名から頼家に景時の連判状が出され、庇いきれなかった頼家は景時を追放します。
景時は一族を連れ上洛を目指しますが、駿河国(するがのくに 静岡県中部・北東部)で在地の武士に襲撃され、一族とともに滅亡します(梶原景時の変)
足立遠元(演 大野泰広)
生誕、死没とも不詳
足立氏は遠元の父・藤原遠兼(ふじわら の とおかね)が武蔵国足立郡(現 東京都足立区)に土着し、遠元になって足立氏を名乗ります。
安達盛長が遠兼の弟らしく、そうすると遠元は盛長の甥ということになります。
平治の乱では源義朝に従い戦います。
鎌倉幕府では公文所寄人の5人の中の1人に選ばれています。
安達盛長(演 野添義弘)
保延元年(1135年)~正治2年4月26日(1200年6月9日)
頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま 演 草笛光子)の長女を妻としており、頼朝が伊豆国(いずのくに 静岡県伊豆半島・東京都伊豆諸島)で流人であった頃から仕えています。
因みに安達という名字は、文治5年(1189年)の奥州合戦(おうしゅうかっせん 頼朝が奥州藤原氏を撃った戦い)に従軍した後、陸奥国安達郡(現 福島県安達郡)を領したため名乗っています。
頼朝死後は出家して蓮西(れんさい)を名乗り、頼家の宿老として幕政に参画します。
13人の合議制の1人となり三河国(みかわのくに 愛知県中・東部)の守護となります。
梶原景時の弾劾では強硬派の1人でしたが、翌年には死去しています。
八田知家
康治元年(1142年)~建保6年3月3日(1218年3月30日)
常陸国(ひたちのくに 茨城県の大部分)の守護
この人の経歴は微妙です。
源義朝に従い、保元元年(1156年)の保元の乱(ほうげんのらん)では功績を上げ、頼朝の挙兵でも早くから参加しています。
奥州合戦でも大将軍に任じられていますが、あまり目立ったところがないです。
もしかしたら、姉の寒河尼(さむかわのあま)が頼朝の乳母の1人となったことが影響しているのかも。
また、この人には義朝の落胤(父に認知されない庶子)説もあり、重用されたか?
13人の合議制に入るには活躍不足のような気がします。
比企能員(演 佐藤二朗)
生誕不詳 死没建仁3年9月2日(1203年10月8日)
信濃国(しなののくに 長野県、岐阜県中津川市の一部)、上野国(こうずけのくに 群馬県)の守護
比企能員は、頼朝の乳母であり20数年間頼朝を支え続けた比企尼の甥に当たります。
比企尼の忠節が認められ、能員は比企尼の猶子となります。
頼朝の信頼が篤く、比企尼の三女、そして能員の妻も頼家の乳母となり、更に能員の娘・若狭局(わかさのつぼね)が頼家の側室となり、一幡(いちまん)を産むと外戚として力を強めます。
頼朝が死ぬと13人の合議制の1人となり、梶原景時の弾劾にも加担しますが、能員の権力増大を恐れた北条時政により、能員は殺害され、一族も滅ぼされました。(比企の乱)
北条時政(演 坂東 彌十郎)
保延4年(1138年)~建保3年1月6日(1215年2月6日)
伊豆国、駿河国、遠江国(とおとうみのくに 静岡県の大井川以西)の守護
この人は、北条宗時(ほうじょう むねとき 演 片岡愛之助)、政子(まさこ 演 小池栄子)、義時らの父ですね。
北条時政は鎌倉時代初の執権となりますが、伊豆の豪族でしかなかった北条氏が政治を動かせるようになったのも政子が頼朝の妻となったことが大きいです。
時政は政子の結婚には反対だったようですが、父としては当然かも。
流人の嫁なんて普通は認めませんから。
しかし、頼朝が挙兵して平氏を倒した事で北条氏はどんどん大きくなっていきました。
頼朝が死ぬと、梶原景時、比企能員、畠山重忠ら有力豪族を排除するように進め、将軍の頼家さえ追放します。
畠山重忠を討ったことが、義時との対立を生み、牧氏事件で時政は義時らに追放されます。
その後は政治の表舞台に立つことなく没しています。
牧氏事件
3代将軍・実朝を廃して、時政と後妻の牧氏(演 宮沢りえ)の娘婿・平賀朝雅(ひらが ともまさ)を将軍に就けようと画策し失敗して事件。
北条時政の記事はコチラ
三浦義澄(演 佐藤B作)
大治2年(1127年)~正治2年1月23日(1200年2月9日)
相模国(さがみのくに 神奈川県の大部分)の守護。相模国三浦郡出身
平治の乱では源義平(みなもと の よしひら 頼朝の兄)に従い戦いますが、敗れて郷里に落ち延びます。
次男ではありましたが、兄の杉本義宗(すぎもと よしむね)が亡くなり家督を継ぎます。
石橋山の戦いでは雨のため参戦出来ず引き返しますが、その際平家方だった畠山重忠らと戦い父を失います。
その後は再起した頼朝と合流し鎌倉へ入ります。
平家方で舅だった伊東祐親(いとう すけちか 演 浅野和之)が捕らえられ、義澄に預けられますが、義澄は祐親の助命をしています。しかし、祐親は自害。
梶原景時の弾劾に加わり、梶原一族が討たれると、その3日後に亡くなっています。
和田義盛(演 横田栄司)
久安3年(1147年)~建暦3年5月3日(1213年5月24日)
初代侍所別当
和田性を名乗っていますが、本来は三浦一族です。
義盛の父が嫡男だったので、父が早死していなかったら、三浦一族を統率出来ていたかもしれません。
義盛は平家や、奥州藤原氏との戦いで活躍し、左衛門尉という官位に任じられます。
頼朝が死ぬと、北条氏とともに梶原氏、比企氏、畠山氏の排除に参加しますが、義盛自身も泉 親衡(いずみ ちかひら)の乱で息子や甥が加担したとして義時に挑発され、挙兵に追い込まれます。
結局、義盛は敗れ和田一族も滅亡しました。(和田合戦)
和田義盛の記事はコチラ
北条義時
長寛元年(1163年)~元仁元年6月13日(1224年7月1日)
官位 鎌倉幕府代2代執権 相模守 陸奥守 従四位の下 右京権太夫
北条時政の次男として出生しています。
本来なら執権にもなれないで生涯を終えたでしょうが、兄の宗時が戦死(ドラマでは暗殺)したため嫡子になっています。
しかし、直ちに後継者となったようではないです。
時政は健在であり、時政の後妻・牧の方との間に後に政範(まさのり)という弟が存在するからです。
義時は頼朝の寝所を警備する11人の1人に選ばれますが、頼朝存命時はあまり目立たず、頭角を現すのは頼朝死後になります。
畠山重忠の乱の後、源氏の重鎮であった平賀朝雅を殺害させると、父に変わり政所別当となり御家人の中で第1位となります。
父の時政を追放した後も、宇都宮頼綱(うつのみや よりつな 時政の娘婿)を出家するよう仕向け、和田合戦で和田義盛を滅亡させると侍所別当にもなり、幕府の主要な役職を独占します。
建保7年1月27日(1219年2月13日)3代将軍・実朝が甥の公暁(くぎょう)に暗殺されます。
この時、頼朝の弟・阿野全成(あの ぜんじょう 演 新納慎也)の子・時元(ときもと)が将軍を望み挙兵します。
義時はこれを討ち、公暁の異母弟・禅暁(ぜんぎょう)も殺害します。
承久3年5月(1221年5月)後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が義時追討の院宣を出し承久の乱が勃発します。
この時、姉の政子が御家人たちを団結させ、京都へ軍を出撃させることが決定します。
戦で大勝すると、後鳥羽上皇を島流しにし、上皇方の所領を没収し東国武士に恩賞として与えます。
これにより、義時の幕府での最高権力者としての地位が確立し、朝廷と幕府の関係が逆転しました。
元仁元年6月13日、義時は63歳で急死します。
吾妻鏡では脚気が原因とされていますが、暗殺などの風聞もあったようです。
「鎌倉殿の13人」は本当にこの13人?
以上13人の経歴を見てきましたが、やはり違和感があります。
鎌倉殿が頼朝を指すなら、畠山重忠や上総広常(かずさ ひろつね 演 佐藤浩市)が入っていても良い気がします。
この2人も頼朝の助けにはなったと思いますが。
畠山重忠は最初平家方で滅ぼされたから?
梶原景時も同じです。
上総広常は有力豪族で、頼朝が石橋山の戦いに敗れた後、合流したので頼朝の味方が増えたと思いますが。
頼朝に忠誠を疑われて、殺されたからですかね?
また、頼家まで支えた人と考えると、失脚した梶原景時や病死した三浦義澄、安達盛長をどう考えるのか。
実際、13人の合議制は1年で解体しています。
いずれにしても最後まで見ないと分からないことだらけです。
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スマイリー
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