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今日は何の日?
1573年(天正元年)9月1日は小谷城が落城し浅井氏が滅亡した日です。
戦国大名、浅井氏
小谷城は近江国(おうみのくに 滋賀県)にあった浅井氏(あざいし)の居城です。
元々、近江国は平安時代より佐々木氏(ささきし)という武士が本拠としていました。
そして、鎌倉時代には近江国の守護に任じられます。
その後、佐々木氏の子孫は六角氏(ろっかくし)、京極氏(きょうごくし)に分かれ、近江国の南側を嫡流の六角氏が、北側を京極氏が支配しました。
浅井氏はその京極氏の家臣に過ぎませんでした。
しかし、京極氏ではお家騒動が起こります。(京極騒動)
京極氏当主に長男を推す派閥と次男を推す派閥に分かれ、抗争が行われました。
その時、浅井亮政(あざい すけまさ)は仲間とともに長男を推し、次男とその父を近江から追放しました。
その後、仲間だったものが、専横を行うようになったため、これも追放し、京極家中で実権を握ります。
京極氏の長男を傀儡の当主に据え、実権を握った亮政でしたが、今度は亮政に不満を持つ反亮政派が形成されます。
亮政は当主とも対立してしまい、また南近江六角氏とも対立していたため、京極氏とは和解します。
一度は和解した当主が再び、反旗を翻してしまい、それを解決できないまま亮政は死去してしまいます。
亮政の跡は嫡男の久政(ひさまさ)に引き継がれますが、久政は六角氏に臣従してしまいます。
久政の息子・長政(ながまさ)は、六角氏家臣の娘と婚姻とさせられますが、1560年(永禄3年)8月の野良田の戦いで15歳の長政が六角軍を破ります。
これにより、六角氏に服従することに不満を持っていた浅井氏家臣は久政を隠居させ、長政を当主とし、六角氏からの独立を果たします。
浅井長政
織田信長との同盟
この頃、尾張国(おわりのくに 愛知県西部)を統一し、美濃国(みののくに 岐阜県南部)の制圧を目指していた織田信長(おだ のぶなが)より同盟の提案がされます。
信長の妹・お市(おいち)を長政の妻として送り込み、同盟を結びましたが、問題がありました。
浅井家は越前国(えちぜんのくに 福井県嶺北地方・敦賀市)の朝倉氏(あさくらし)と親しく、その朝倉氏は織田氏と不仲の間柄だったことです。
(因みに朝倉氏も織田氏も斯波氏(しばし)の家臣の家柄です。更に信長の家は本家織田氏の家臣。)朝倉氏は織田氏を格下に見ていた訳です。
浅井氏が朝倉氏との関係を重視したことが、後に滅亡する原因となります。
お市
長政、信長へ敵対する
美濃国を制圧した信長は、当時朝倉氏に庇護されていた足利義昭(あしかが よしあき)を奉じ、上洛します。
この時は長政も信長の上洛を援護しますが、1570年(元亀元年)、織田・浅井同盟の条件だった「朝倉氏への不戦の誓い」を破り、信長は朝倉氏の城を攻め始めます。
長政は、軍を織田軍の背後から急襲させ、織田軍が敗退しました。(金ケ崎の戦い)
これに怒った信長は同年6月、徳川軍とともに近江国姉川で浅井・朝倉連合軍と戦い、勝利します。
浅井氏は小谷城の南方拠点であった横山城を奪われ、信長家臣の木下秀吉(きのした ひでよし)が入ることとなり、監視されます。
これでも、浅井氏は徹底抗戦し、足利義昭の呼びかけに応じた石山本願寺(いしやまほんがんじ)が立ち上がり、東からは武田信玄(たけだ しんげん)の遠征もあり、信長包囲網が完成されてしまいました。
ただ、近江では、小谷城と分断され孤立した佐和山城の磯野員昌(いその かずまさ)らが織田軍に寝返り、浅井氏は苦境に陥ります。
1570年(元亀3年)7月、信長は5万の大軍で小谷城の目と鼻の先にある虎御前山に本陣を敷き、虎御前山から横山城まで長大なな要害作り始めます。
これをみた長政は朝倉義景(あさくら よしかげ)に援軍を求めます。
義景は援軍にやって来たものの、ほとんど攻勢に出ず、多くの家臣が織田軍に寝返ってしまいます。
そして要害が完成してしまい、ようやく11月になって浅井・朝倉軍は動きますが、秀吉に撃退されたため12月には朝倉軍は撤退してしまいました。
孤立深まる浅井軍
1573年(元亀4年)3月には、足利義昭が槙島城で挙兵します。
義昭は一度は信長と和議を結びますが、7月に再び挙兵し、降伏すると追放されてしまいます。(足利幕府滅亡)
近江では、浅井家重臣で山本山城主・阿閉貞征(あつじ さだゆき)が信長へ寝返ってため、好機と見た信長は北近江への侵攻を開始します。
小谷城では5000の兵で籠城していましたが、離反が相次ぎ益々孤立しました。
朝倉義景は浅井氏の援軍要請に対し、家臣の反対を押し切って義景自身が2万の兵を率い、小谷城の北方まで進出します。
しかし、前哨戦で敗北し、砦を落とされると、不利を悟り撤退を開始しました。
そこを織田軍に猛追され、朝倉一門や武将を数多く失い、義景は手勢のみ率い、居城の一乗谷へ帰還しました。
8月20日、義景は一門の朝倉景鏡(あさくら かげあきら)に裏切られ、自刃し朝倉氏も滅亡してしまいます。(一乗谷の戦い)
小谷城決戦
朝倉氏を滅ぼし、越前国を制圧した信長は、小谷城に引き返すと全軍に小谷城の総攻撃を命じます。
8月27日、木下秀吉率いる3000の兵にによって、長政の籠もる本丸と久政が籠もる小丸の間にある京極丸が占拠されます。
分断された小丸への攻撃が激しくなり、追い詰められた久政はここで自害します。享年48
本丸はしばらく持ちこたえますが、長政は嫡男の万福丸(まんぷくまる)を逃し、お市と3人の娘を織田軍に引き渡します。
お市は夫・長政の助命を信長に嘆願し、信長も大和国(やまとのくに 奈良県)一国を与えることを条件に降伏を勧告しますが、長政はこれを拒否し徹底抗戦をしました。
9月1日、長政は200の兵で本丸から総攻撃に出ますが、返り討ちにあい総崩れとなります。
命運尽きたことを悟った長政は、赤尾屋敷内で重臣の赤尾清綱(あかお きよつな)や弟の浅井政元(あざい まさもと)らとともに自害しました。享年29
まもなく本丸も制圧され、小谷城は遂に落城します。
これをもって浅井氏は亮政から3代で滅亡しました。
浅井一族と小谷城の運命
敦賀まで逃れた万福丸でしたが、潜伏してたところを見つかり、関ヶ原で磔にされています。この時10歳。
一族の浅井亮親(あざい すけちか)、浅井井規(あざい いのり)らも処刑されています。
また、浅井氏の旧領は木下秀吉に与えられますが、秀吉は小谷城には入らず、長浜に城を築きます。
小谷城は廃城とされ、資材が長浜城に流用されたということです。
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スマイリー
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