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今日は何の日?
保元元年(1156年)7月11日は保元の乱で後白河天皇方が勝利した日です。
保元の乱のきっかけ
保元の乱は、天皇家、摂関家(藤原氏)の親子、兄弟の争いが、源氏や平氏まで巻き込んでの戦いとなりました。
天皇家のケース
当時の天皇は、崇徳天皇(すとくてんのう)で父の鳥羽法皇(とばほうおう)が院政を行っていました。
崇徳上皇
崇徳天皇は鳥羽法皇の第一皇子であり、母は藤原璋子(ふじわらの たまこ 待賢門院 たいけんもんいん)ですが、
鳥羽法皇は、藤原得子(ふじわらの とくし 美福門院 びふくもんいん)を寵愛し、第九皇子の体仁親王(なりひとしんのう)後の近衛天皇(このえてんのう)が生まれます。
鳥羽法皇は、体仁親王の即位を望み、永治元年(1141年)12月7日に僅か5歳で天皇として即位します。
この状態で、上皇が鳥羽法皇と崇徳上皇の2人となってしまいます。
近衛天皇は崇徳上皇の弟ですが、崇徳天皇の中宮(ちゅうぐう お后)の養子となることで、崇徳天皇の皇太子となるはずでした。
しかし、実際には皇太弟であり、弟が天皇になると、院政が行えないことで崇徳上皇にとっては痛手となります。
しかも、翌年には、近衛天皇と得子を呪詛(呪い殺そうとすること)の嫌疑で、待賢門院が出家に追い込まれます。(密告したのは、得子らしいですが。)
これにより、崇徳天皇の外戚の勢力が弱まり、崇徳上皇にとっては後ろ盾がなくなります。
摂関家のケース
鳥羽上皇の祖父である、白河法皇(しらかわほうおう)の時代には、不遇であった摂関家でしたが、鳥羽上皇の院政が開始されると、藤原忠実(ふじわらの ただざね)の娘・泰子(やすこ)が
皇后となり息を吹き返します。
しかし、忠実の息子である関白・藤原忠通(ふじわらの ただみち)には後継者がおらず、異母弟の藤原頼長(ふじわらの よりなが)を養子に迎えます。
ところが康治2年(1143年)、忠通に近衛基実(このえ もとざね)が生まれてしまいます。
実子を後継者にしたい忠通は、頼長との養子関係を破棄し、忠実・頼長と対立します。
久安6年(1150年)近衛天皇が元服の式をあげると、頼長は養女の多子(まさるこ)を入内させ、女御(にょうご)とします。
一方の忠通も美福門院の養女となっていた呈子(ていし)を養女とし、入内させることで対抗します。
鳥羽法皇は、多子を皇后、呈子を中宮とすることで、事を収めようとしますが、忠通と忠実・頼長の関係は修復不可能になっていました。
このため忠実は忠通との親子関係を断ち切り、藤氏長者(藤原氏の当主)の地位を頼長に譲り渡します。
どっちつかずの鳥羽法皇は、忠通を関白で残す一方、頼長を内覧の地位につけます。
近衛天皇崩御
内覧となった頼長は、綱紀粛正に取り組みますが、苛烈で妥協を知らない性格から「悪左府」(頼長は左大臣だったため)と呼ばれ、院の近臣との関係が悪くなります。
しかも頼長は、院の近臣の藤原家成(ふじわらの いえなり)の邸宅を破却する事件を起こし、鳥羽法皇の心証を悪くします。
一方の忠通は、仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に陥ると、後継者としては、崇徳天皇の第一皇子の重仁親王(しげひとしんのう)が有力でしたが、
美福門院の養子・守仁親王(もりひとしんのう)後の二条天皇(にじょうてんのう)への譲位を鳥羽法皇に奏上します。
近衛天皇に面会できたのは忠通ほか限られた人達だったので、鳥羽法皇は忠通が権力を独占しようとして嘘を言ってると思いこれを信じず、忠通に対する心証も悪くします。
しかし、忠通は美福門院と組み、守仁親王の即位実現を目指します。
久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が崩御します。
後継天皇を決める会議が行われますが、出席したのは美福門院と関係の深い公卿でした。
候補として、重仁親王、守仁親王、暲子内親王(あきこないしんのう)でしたが、守仁親王の父・雅仁親王(まさひとしんのう)が守仁親王即位までの中継ぎとして立太子せず即位しました(後白河天皇 ごしらかわてんのう)
後白河天皇
後白河天皇が候補に上がっていなかったのは、待賢門院の子であり、後ろ盾もなかったからでしょうね。
ただ、雅仁親王即位の背景には、雅仁の乳母夫で近臣である信西(しんぜい)の策謀があったようです。
この重要な時期に頼長はというと、妻の服喪のため朝廷に出仕しておらず、近衛天皇の崩御も忠実・頼長の呪詛のためと噂されており、事実上の失脚状態にありました。
忠実は泰子を通し、鳥羽法皇の信頼を取り戻そうとしますが、泰子も崩御してしまい、叶いませんでした。
鳥羽法皇崩御
新体制が始まると、後白河天皇と藤原忻子(ふじわらの きんし)、守仁親王と姝子内親王(よしこないしんのう)の婚姻が相次いで行われています。
これは、待賢門院派と美福門院派を修復させるとともに、忠実・頼長の支持勢力を切り崩す意図があったようです。
しかし、新体制の基盤が固まらないうちに、保元元年(1156年)5月に鳥羽法皇が病に倒れます。
これは法皇の権威を盾に、忠実・頼長を抑圧してきた美福門院・忠通・院の近臣らにとって危機でした。
政治不安を危惧した病床の鳥羽法皇は、源為義(みなもとの ためよし)・平清盛(たいらの きよもり)ら北面武士(ほくめんのぶし 院の警護の武士)に誓約書を書かせ美福門院に差し出させたそうです。
為義は、忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛(ただもり)は重仁親王の後見人だったためです。
法皇の容態が絶望になった6月1日には、鳥羽殿を源光保(みなもとの みつやす)・平盛兼(たいらの もりかね)が、後白河の高松殿を源義朝(みなもとの よしとも)・源義康(みなもとの よしやす)らが兵を率い警護しだします。
1ヶ月後の7月2日、鳥羽法皇が崩御します。
崇徳上皇は見舞いに訪れますが、対面できませんでした。
一説には、法皇は自身の遺体を崇徳天皇に見せないよう側近に言い残したといい、憤慨した崇徳上皇は鳥羽田中殿に引き返しています。
保元の乱の始まり
鳥羽法皇が崩御してまもなく、崇徳上皇が頼長と兵を起こすという風聞に対応するため、勅命により平基盛(たいらの もともり)・源義康らが召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られます。
7月6日には、頼長の命で京に潜伏していた容疑で、源親治(みなもとの ちかはる)が基盛に捕らえらます。
8日には忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(みぎょうしょ 命令文書)が出されると同時に、源義朝の兵が東三条殿に乱入し、邸宅を没収しています。
これは、頼長が謀反人とされたことを意味しています。
この挑発に追い詰められた忠実・頼長は挙兵するしか道がなくなりました。
9日の夜、崇徳上皇は少数の側近と鳥羽田中殿を脱出し、白河にある姉の統子内親王(とうしないしんのう)の御所に押し入ります。
10日には、頼長が宇治から上洛し、白河北殿に入りました。
この時点で頼長は崇徳上皇を担ぐことにし、見事に後白河方の策謀にはまりました。
白河北殿には、貴族では崇徳の側近である藤原教長(ふじわらの のりなが)、頼長の母方の縁者である藤原盛憲(ふじわらの もりのり)・藤原経憲(ふじわらの つねのり)兄弟、
武士では、平家弘(たいらの いえひろ)、源為国(みなもとの ためくに)、源為義、平忠正(たいらの ただまさ)、多田頼憲(ただ よりのり)らが集まります。
しかし、崇徳の従者である家弘、為国を除くと、為義と忠正は頼長の家人であり、頼憲は藤原氏の多田庄の荘官であり、忠実・頼長と主従関係を結んでいました。
そのため、ほぼ摂関家の私兵であり、劣勢にありました。
崇徳は、清盛の父・忠盛が重仁親王の後見人だった関係から、味方を期待しますが、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)が崇徳方の敗北を予想し、息子の頼盛(よりもり)に清盛と協力するよう命じます。
白河北殿では、源為朝(みなもとの ためとも)が夜襲を献策しますが、頼長によって斥けられました。
一方、後白河天皇方には、源義朝・源義康に加え、平清盛、源頼政(みなもとの よりまさ)、源重成(みなもとの しげなり)源季実(みなもとの すえざね)、平信兼(たいらの のぶかね)らが集結します。
作戦会議では、信西や源義朝らが先制攻撃を主張し、渋る忠通を押し切ったそうなので、この違いが戦の勝敗を分けました。
7月11日未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、午前4時頃上皇方との戦の火蓋が切られます。
上皇方では源為朝が活躍し、清盛は有力郎党を失い、義朝軍も50名の死傷者を出し退却します。
攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放ちます。
午前8時頃、白河北殿に火が燃え移ると上皇方は総崩れになり、崇徳上皇や頼長は脱出し行方をくらまします。
後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に帰還し、午後0時頃には清盛・義朝も帰参し戦闘は終結しました。
頼長の敗北を知った忠実は、宇治から奈良に逃亡します。
やはり貴族は覚悟が足りないですね。
戦後処理
合戦の勝利を受け、朝廷では忠通に藤氏長者の宣旨(命令)を下し、武士に恩賞を与えます。
清盛は播磨守(はりまのかみ 兵庫県南西部の国司)に義朝は左馬頭(さまのかみ 朝廷保有の馬の飼育、調教に当たる官職)に補任され、義朝と義康には昇殿が許されます。
藤氏長者の地位は藤原道長(ふじわらの みちなが)以来、摂関家当主の決定事項であり、天皇に任命権はありませんでした。
忠通は朝廷の介入を不快に思いながらも、吉日に受けるとし辞退しています。
13日に逃亡していた崇徳上皇が仁和寺に出頭し、同母弟の覚性入道親王(かくしょうにゅうどうしんのう)にとりなしを依頼しますが断られ、源重成の監視下に置かれます。
頼長は首に矢を受け、重傷の状態で奈良へ逃げますが、忠実に対面を断られます。
失意の頼長は、手の施しようがなく14日に死去します。
摂関家を守るために頼長は見捨てられましたことになります。
15日に奈良の忠実から忠通を通して、書状が朝廷に出されます。
摂関家当主のだった忠実の所領は膨大で、これを没収されると摂関家にとって大打撃となるため、忠通に譲ることで没収から守ろうとします。
忠通は藤氏長者となることで、所領を受け継ぎました。
しかし、頼長の所領は没収され、天皇の財政基盤となります。
過酷な処置
23日に崇徳上皇は讃岐(さぬき 香川県)に配流されます。
これは、藤原仲麻呂(ふじわらの なかまろ)の乱で淳仁天皇(じゅんにんてんのう)が配流されて以来、約400年ぶりの出来事でした。
崇徳は2度と京の地を踏むことなく、8年後の長寛2年(1164年)に亡くなっています。
息子の重仁親王は出家を条件に不問とされました。
27日には、頼長の息子たちや他の貴族、武士達に罪名が下ります。
忠実は高齢でもあり、忠通の奔走もあり罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となりました。
特に武士に対しては厳しく、薬子の変(くすこのへん)を最後に公式には行われてなかった死刑が復活します。
28日には忠正が、30日には為義と家弘が一族もろとも斬首されています。
死刑の復活には疑問の声もありましたが、法知識を持った信西には反論できる者がいませんでした。
また、平氏のライバルである源氏の力を弱めるため、清盛が叔父の忠正を斬ることにより、義朝にも親である為義や兄弟達を斬るように追い込んだと言われてます。
ただ一人、為朝だけは武勇を惜しまれ、伊豆大島へ配流されています。
乱後に主導権を握ったのは信西であり、国政改革に着手し、大内裏(だいだいり 平安京の宮城)を再建を実現していきます。
また信西の息子たちが弁官(べんかん 朝廷の官職)や受領(ずりょう 国司の現地責任者)などに抜擢されますが、この急速な台頭が院の近臣や他の貴族の反発を買い、反信西派が形成されることになります。
さらに院近臣も後白河上皇派と二条天皇派に分かれ、三つ巴の対立になっていきます。
これが武力衝突となるのが、平治元年(1160年)12月に起こる平治の乱です。
崇徳上皇、淳仁天皇を祀る白峯神宮
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