徳川幕府終わりの始まり。鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の初戦)

今日は何の日?
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今日は何の日?

1868年(慶応4年)1月3日は鳥羽伏見の戦いが始まった日です。

この戦いは鳥羽伏見~箱館戦争までの戊辰戦争(ぼしんせんそう)と言われる一連の戦争の初戦に当たります。

因みに、戊辰というのは、1868年が干支(えと)で言うと戊辰だったことから。

新政府軍VS旧幕府軍の戦いでした。

戦いまでの経緯

1866年(慶応2年)徳川幕府は長州藩(毛利家)に対し、第二次長州征伐を行いますが失敗し、幕府の権威が低下していました。

1867年(慶応3年)薩摩藩(島津家)は政治の主導権を幕府から奪取しようと、朝廷を中心とした公武合体の政治体制を目指し、四候会議(有力大名の合議体)を主導します。

しかし、将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)との政局に敗れ、失敗したため、徳川氏を排除した政治体制に方針転換します。

そのためには、倒幕しかないと薩摩や長州は考え出すようになりました。

同年5月21日薩摩藩と土佐藩(山内家)は倒幕の密約を結びます。

土佐藩の乾退助(いぬい たいすけ 後の板垣退助)は全土佐藩主・山内容堂(やまうち ようどう)に対し、江戸藩邸に水戸の勤王浪士を匿っている事を告白し、倒幕に立ちあがるよう促しました。

退助は容堂の許可を得て、中岡慎太郎(なかおか しんたろう)に銃の購入を命じると、弓隊を廃止して鉄砲隊を組織します。

慎太郎は、退助の倒幕の書簡を土佐勤王党の同志に送り、土佐勤王党の支持をえます。

一方、薩摩藩でも5月25日に重心会議を開き、藩論を倒幕に統一することを確認しました。

同年10月13日に岩倉具視(いわくら ともみ)の尽力により、薩摩藩に倒幕の密勅が下り、14日には同様に長州藩にも密勅が下ります。

大政奉還

しかし慶喜は、かねてより容堂から建白のあった大政奉還を10月14日に朝廷に上表します。機先を制したかたちですね。

これにより、薩摩藩らに下されていた倒幕の密勅は大義名分を失います。

そこで、大義名分を失った薩摩藩の西郷隆盛(さいごう たかもり)は土佐藩より移管された水戸の勤皇労使を使って江戸を混乱させ、旧幕府を挑発して戦闘を開かせるという策略を立てます。

土佐藩では、10月18日に大政奉還に反対する退助を残し、勤皇派が兵を率い京都に向け、土佐を出港します。

この時退助は、京都で戦端が開かれたときは薩摩藩との密約に基づき、薩摩藩に加勢するように命じていますが、19日には大政奉還に反対したことで役職を解任され失脚しました。

そして12月9日に明治天皇(めいじてんのう)により王政復古の大号令が発せられます。

これにより、慶喜の将軍辞官と領地返還が命じられましたが、倒幕派と佐幕派(親幕府派)で意見が対立します。

慶喜、朝廷へ反旗を翻す

12月10日、徳川家の親族大名である松平春嶽(まつだいら しゅんがく)徳川慶勝(とくがわ よしかつ)が使者として慶喜のもとに派遣され、この決定を通告しました。

慶喜は「謹んで受ける」としながらも、曖昧な返答を行い、朝廷に恭順の意思を示すため、伏見城を出て、13日には大阪城に入ります。

ところが、大阪城に入ると連絡を絶ち、12月16日にはフランス・イギリス・イタリア・アメリカ・プロイセン・オランダの公使を集め、「各国との条約締結や外交の権限は、今後、天皇陛下ではなく慶喜が掌握する」と宣言し公然と朝廷に対し、反旗を翻しました。

大阪城では、会津藩(松平家)桑名藩(松平家)だけでなく、幕府閣僚にも主戦論が高まり、12月中旬には幕府軍を京・大阪の要地に展開しました。

新政府では、12月23日・24日に慶喜についての会議が行われ、「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令が出されます。

再度、春嶽と慶勝が使者に出され、慶喜はこの命令を受け入れます。

近日中に慶喜が上京することも合意され、慶喜の復権は着実に進んでいました。

鳥羽伏見の前哨戦

しかし、慶喜復権に向けて不穏な動きを感じた倒幕派は、薩摩藩で管理していた勤王浪士を使っての江戸の混乱挑発作戦を敢行します。

12月23日三田の庄内藩屯所を銃撃し、江戸城二の丸付近で炎上が起こると、堪りかねた幕府側は薩摩藩の浪士処分を決定します。

12月25日に薩摩藩に対し浪士の引き渡しを求めますが、薩摩側が拒絶したため、庄内藩による薩摩藩邸焼き討ち事件が発生します。

12月28日にその知らせが大阪に届くと、慶喜の周辺でも薩摩を討つべしとの声が高まります。見事に薩摩側の戦略に引っかかってしまいました。

慶喜としては武力を背景に朝廷を威圧し、新政府と交渉を続けていくつもりでしたが、主戦派を抑えきれなくなり1868年(慶応4年)元日、「討薩表」を発し、2日から3日にかけ京都へ向け15,000の軍勢を進軍させます。

この時の慶喜としては、徳川家対薩摩藩との私戦との認識だったようです。

慶喜出兵の報告を受け、朝廷では旧幕府軍が京都の東側から進軍してくることも想定して、近江国(滋賀県)大津に兵を派遣することを決定し、京都に部隊を置く複数の藩と彦根藩(井伊家)に大津への出兵を命じます。

しかし、どの藩も躊躇し、命令に従ったのは大村藩(大村家)だけでした。しかも兵力はたったの50人程度。

ただし、後の戦況に大きな影響を与えています。

ついに本戦へ

鳥羽方面の戦い

3日午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触します。

街道の通行を求める旧幕府軍と、許可を待つように返答する薩摩藩側とで押し問答が繰り返され、業を煮やした旧幕府軍隊列を組んで前進し、強引に押し通る旨を通告します。

薩摩藩側は通行を許可しない旨を回答した後、銃と大砲が発砲され旧幕府軍は大混乱に陥ります。

旧幕府軍の認識は、戦闘は京都に入ってからと思っていたっようで、この時、銃に弾込めされてなかった歩兵隊は不意の攻撃に狼狽し、指揮官の滝川具挙(たきがわ ともたか)は前線から逃亡する始末でした。

指揮官不在の形になった旧幕府軍の先鋒は潰走し、一部が踏みとどまっていたところに、後続の桑名藩砲兵隊は到着し反撃を開始します。

日没を迎えても戦闘は継続し、旧幕府軍も再三攻勢をかけますが、死傷者を増やしついに下鳥羽方面に退却します。

伏見方面の戦い

伏見でも通行を巡り問答が繰り返されてましてが、鳥羽方面で銃声が聞こえると戦端が開かれます。

旧幕府軍は陸軍奉行・竹中重固(たけなか しげかた)を指揮官に旧伏見奉行所を本陣に展開します。

対する薩摩・長州藩兵(約800名)は御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)を中心に伏見街道を封鎖し、奉行所を包囲する形で布陣しました。

奉行所内にいた会津藩兵や土方歳三(ひじかた としぞう)率いる新選組が切り込み攻撃をかけると、高台にいた薩摩藩砲兵等が銃撃を加え多くの死傷者を出します。

午後8時頃、薩摩藩砲兵の放った砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫に命中し、奉行所は炎上します。

新政府軍は、更に周囲の民家に放火し、炎を照明代わりに猛烈に銃撃したため、旧幕府軍は支えきれず退却を開始し、0時頃奉行所内に突入しました。

旧幕府軍は堀川を超えて中書島(ちゅうしょじま)に防衛線を張りますが、重固は部隊を放置し淀まで逃げ延びます。

新政府軍5,000に対し、旧幕府軍は15,000もいたのに指揮官が不在では兵はたまったものではないですね。

3日には朝廷で緊急会議が招集されます。

大久保利通(おおくぼ としみち)は「徳川征討の布告と錦旗が必要」と主張し、春嶽は「これは薩摩藩と旧幕府勢力の私闘であり、朝廷は中立を保つべき」と反対を主張します。

岩倉が大久保に賛成したため、会議の大勢は決します。

土佐藩では、山内容堂が、在京の土佐藩兵に「此度の戦闘は、薩摩・長州と会津・桑名の私闘であると解するゆえ、何分の沙汰ある迄は、此度の戦闘に手出しすることを厳禁す」と伝えますが、土佐藩の諸隊は藩命を待たず薩摩との密約によって旧幕府軍に攻撃を加えました。

これによって幕府軍は敗走し土佐藩は勝利をあげますが、藩命に背いたため、叱責を受け切腹となるところ、錦の御旗(にしきのみはた)が翻って処分が保留となりました。

近江方面

旧幕府軍は、伊勢方面から京都に向け援軍が進発していました。

3日の夜になって、大津に潜入していた偵察より大津に新政府軍が入っている報告を受けます。

それが大村藩の50名の部隊でしたが、旧幕府軍の援軍は大津に新政府軍が集結していると誤認し、大津から京都を目指すことを断念してしまいます。

結局、新政府軍が危惧していた近江からの侵攻はありませんでした。

淀での戦い

4日には鳥羽方面で旧幕府軍が一時盛り返します。

しかし、指揮官の佐久間信久(さくま のぶひさ)らが戦死し、新政府軍の反撃を受け富の森に退却します。

旧幕府軍は賊軍へ

同日、朝廷では小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう)を征討大将軍に任命し、錦の御旗と節刀(せっとう)を与え、新政府軍を官軍としました。

                    錦の御旗

また、薩摩藩に会津藩邸の制圧の命令が下ります。

尾張藩の徳川慶勝には、二条城接収の命令が下り、翌日接収しています。

入京していた因幡藩(池田家)柏原藩(織田家)などの諸藩も参戦を表明し、薩長側に合流しました。

5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃しますが、一進一退の乱戦の末に旧幕府軍は敗退し、鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を失います。

そこで、現職の老中でもあった稲葉 正邦(いなば まさくに)の淀藩を頼り立て直しをはかろうとします。

しかし、淀藩には朝廷や新政府軍と戦う意思がなく、旧幕府軍は淀城への入城を拒まれてしまいます。

入城を拒まれた旧幕府軍は、さらに大坂寄りの男山・橋本方面へ撤退しました。

橋本の戦い

5日の夜、勅使(天皇の使者)四条 隆平(しじょう たかとし)は山崎関門(梶原台場)へ行き、山崎一帯の津藩兵を指揮する藤堂 元施(とうどう もとひろ)を説得し寝返らせ官軍としました。

6日、旧幕府軍は、石清水八幡宮の鎮座する男山に東西に分かれ布陣します。

西側の橋本には土方率いる新選組などを擁する旧幕府軍が陣を張ります。

東に男山、西に淀川、南に小浜藩(酒井家)が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にありました。

しかし、山崎の津藩兵が官軍となったため、淀川対岸の高浜砲台から旧幕府軍へ砲撃が加えられます。

思いがけない西側からの砲撃に、旧幕府軍は戦意を失い総崩れとなります。

楠葉台場から西岸に向け反撃を行いますが、東にも官軍が現れます。

陸路からの攻めに弱かった楠葉台場は放棄され、旧幕府軍は淀川を下って大阪に逃れました。

結果

6日大阪にいた慶喜へ、敗戦と薩長軍が錦の御旗を掲げている報告が入ります。

これにより「徳川家と薩摩藩の私戦」という慶喜が描いていた構図は崩れました。

開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は自身が朝敵となることを恐れ、表では旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説きますが、裏ではその夜僅かな側近や老中、会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)、桑名藩主・松平 定敬(まつだいら さだあき)と共に城を密かに脱出し、軍艦・咸臨丸(かんりんまる)で江戸に戻りました。

総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還してしまいます。

ここで悲運な武士が1人。

会津藩軍事総督の神保 修理(じんぼ しゅり)です。

元々主戦派でなく、賊軍となったことで慶喜に恭順を説いたそうですが、それが逃亡につながり、主戦派からは敗戦の責任を一身に受けることとなり、切腹させられます。

この有能な武士が生きていたら、会津藩の運命も変わってたことでしょう。

兵を見捨てて逃げる総大将なんて許せませんね。

7日には慶喜追討令が朝廷より出されます。

9日には空になった大阪城が新政府軍により接収され、京阪一帯が新政府軍の支配下となります。

1月中旬までに西日本の諸藩及び、尾張・桑名藩が恭順します。

25日、列強各国は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認されていた唯一の日本政府としての地位を失いました。

2月には東征軍が江戸に向け進撃を開始します。

 

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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