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今日は何の日?
1184年(寿永3年)3月28日は平維盛の命日と言われています。
言われている?
というのも、平家物語この日に平維盛(たいらの これもり)が那智の沖(和歌山県)で入水自殺したと言われてるためです。
但し、平家物語って作者不詳だし、実際に維盛の死を見た人がいるのかということですよね。
平維盛とは?
いきなり、ツッコミを入れてっしまいましたが、平維盛ってどんな人でしょう?
維盛は、平安時代の武将で当時、政権を握ってた平清盛(たいらの きよもり)の孫です。
容姿が美しく、光源氏(ひかるげんじ)の再来とまで評されています。
父は、平重盛(たいらの しげもり)。母親は不明ながら、重盛の正室ではなかったようです。(つまり庶子)
しかし、庶子ながら、12歳の頃には、次男で本妻の子の資盛(すけもり)の官位を追い抜いていて、嫡男扱いされたようです。
父、重盛は清盛の長男で、維盛も重盛の長男でしたから、順当にいけば、平氏の棟梁として権勢をふるうことができてたでしょう。
維盛の不運
しかしそうはなりませんでした。
初めのうちこそ、保元の乱、平治の乱で祖父らが勝利者の立場におり、順当に出世していき、14歳で藤原成親(ふじわらの なりちか)の娘を妻に迎えています。
(実は父・重盛も成親の妹を妻にしており、成親という人物とは親戚関係にありました。ただ、この関係から、平氏一族からは後に孤立していくのです。)
早すぎる父の死
この頃、清盛は後白河法皇(ごしらかわほうおう)と対立関係にありました。
法皇の近臣である成親と父・清盛との間で重盛は微妙な立場にいました。
1177年(安永3年)6月に起きた鹿ケ谷の陰謀で平氏打倒の計画が漏れた時、成親は捕えられ、清盛の命令で殺害されます。
これにより重盛一家(小松家)は立場が悪くなっていました。
そして、1179年(治承3年)7月、清盛の後継者と目されていた重盛が病没します。(享年42)
ここで、後継候補に挙がってきたのが重盛の弟・宗盛(むねもり)です。
清盛の継室である平時子(たいらの ときこ)との間の子である宗盛は、重盛死後に有力な親族の後ろ盾がいない維盛より有利でした。
しかも、重盛が知行国として持っていた越前国(えちぜんのくに 福井県嶺北地方・敦賀市)を後白河法皇が没収してしまいます。
この没収は維盛ら重盛の遺児にとっての生活基盤だったため、大きな痛手となります。
これに怒った清盛は、治承3年の政変というクーデターを起こし、法皇を幽閉してしまいます。
治承・寿永の乱
清盛のこういった行動は様々な反発を生みました。
1180年(治承4年)5月26日、まず、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が挙兵します。
維盛は、叔父・平重衡(たいらの しげひら)と大将軍として宇治に派遣されますが、以仁王の軍が少なかったことや、維盛の乳母父で侍大将の伊藤忠清(いとう ただきよ)の奮戦があったことで乱を鎮圧します。
しかし、乱の火花は飛び火し、源頼朝(みなもとの よりとも)ら諸国の源氏が挙兵すると、東国追討軍の総大将として出兵します。
ここで有名な戦いが、富士川の戦いです。(一説には水鳥の羽音を敵襲と勘違いして敗北したという。)
出兵に際しては、出兵期日の件で伊藤忠清と内輪もめがあったり、兵を集めてもなかなか集まらず、また、凶作で兵糧不足にも苦しみ散々でした。
源氏軍と対峙した時には、投降や逃亡などで4000騎程だったといいます。この時の直接の対戦相手は、甲斐源氏の武田信義(たけだ のぶよし)、頼朝軍はいなかったようです。
戦う前から数も士気も高くない平氏軍は、結局大敗北して、維盛も10騎で京都に逃げ戻りました。
これには清盛も怒り、京都に入ることを禁じたといいます。
平氏一門と都落ち
1181年(養和元年)閏2月には、清盛が病没します。
3月に墨俣川の戦いが起こり、叔父・重衡と出兵し、この時は源氏軍に勝利しています。
源氏軍の大将は頼朝の叔父・源行家(みなもとの ゆきいえ 頼朝の叔父)でしたが、まとまりが悪く敗北しています。
この勝利により、維盛は右中将・蔵人頭となり、小松中将と呼ばれます。
信濃国(しなののくに 長野県)で木曽義仲(きそ よしなか 頼朝のいとこ)が挙兵すると、1183年(寿永2年)4月維盛は総大将として北陸地方に派遣されます。
平氏の総力を結集した10万(「玉葉」によると4万)ともいわれる軍勢でしたが、またも大敗北を喫しました。
維盛は3人の侍大将と権威を争っているうちに敗北したといい、大将としての戦の素質はあまりなさそうですね。
この敗北により、平氏は京都を捨てて都落ちをします。
維盛も都落ちしますが、妻子を京都に残し名残を惜しんで遅れており、宗盛らに変心を疑われる場面があります。
1184年(寿永3年)2月、維盛は一ノ谷の戦い前後から陣中を逃亡しています。
「玉葉」によると、30隻ばかりを率い、南海に向かったとあります。
後に高野山で出家し、熊野三山を参詣した後、船で那智の沖の紀の松島に渡って入水自殺したとあります。(平家物語)
また、相模国(さがみのくに 神奈川県)で病没したとも考えられています。
他には、沖縄に伝わる歌謡集「おもろさうし」には大和の国の兵団が運天港に上陸したともあり、維盛の一団とも考えられているようです。
源為朝(みなもとの ためとも)の伝説でもそうですが、日本本土で行き場がなくなると、沖縄に行きついちゃうんですね。
維盛の確定された墓所はありませんが、那智の補陀洛山寺(ふだらくさんじ)には供養塔があり、そのほかにも墓所とされるものがいくつか残っています。
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スマイリー
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