山名氏の三男から幕政の中心へ、死後の山名氏は衰退へ向かう。山名宗全

今日は何の日?
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今日は何の日?

1404年(応永11年)5月29日は山名宗全の誕生日です。

山名宗全って?

山名宗全(やまな そうぜん)と言えば、室町時代の大名です。

応仁の乱で西軍の総大将を務めた人なので、歴史の教科書には出てきますね。

宗全の方が有名ですが、これは出家後の法名で、名は持豊(もちとよ)と言います。(ここでは持豊で書きます)

持豊の山名家は室町幕府では四職(ししき)という家柄で、赤松家(あかまつけ)・京極家(きょうごくけ)・一色家(いっしきけ)と共に侍所(さむらいどころ 軍事・警察を担える組織)の長官を交代で選ばれるほどの名家でした。

しかも源氏の血を引く新田氏(にったし)の分家です。

持豊は山名時熙(やまな ときひろ)の3男として出生しています。

兄との相続争い

10歳で元服した時、4代将軍足利義持(あしかが よしもち)の1字を頂き持豊と名乗りました。

1420年(応永27年)に長兄の山名満時(やまな みつとき)が亡くなり、後継問題が生じます。

1428年(応永35年)に父・時煕が重病になり、なぜか持豊を跡継ぎにしようとします。

しかし、これに横槍を入れたのが、6代将軍足利義教(あしかが よしのり)です。

義教は自分の側近となっていた次兄の山名持煕(やまな もちひろ)を跡継ぎにするように命じてきたのです。

この時は、時煕の病が回復した為、先送りとなりますが、山名家に動揺が広がります。

ところが、1431年(永享3年)5月に持煕が義教の怒りにふれ廃嫡された為、持煕は将軍の後ろ盾を失い、跡継ぎ争いから脱落してしまい、持豊が跡継ぎに決まります。(いつの時代にもある家督争いですね)

1433年(永享5年)8月9日、家督を相続すると、但馬(たじまのくに 兵庫県北部)・備後(びんごのくに 広島県東半分)・安芸(あきのくに 広島県西半分)・伊賀(いがのくに 三重県西部)の4ヶ国の守護大名となり、病気がちの父に代わり義教に仕えます。

1435年(永享7年)に時煕が死去すると、1437年(永享9年)に持豊の家督相続に不満を持っていた持煕が備後で挙兵し、持豊はこれを鎮圧しました。

1440年(永享12年)には幕府の侍所頭人と山城(やましろのくに 京都府南部)の守護を兼務します。

幕政の中心へ

1441年(嘉吉元年)6月24日、持豊は将軍義教に従い、播磨(はりまのくに 兵庫県南西部)・備前(びぜんのくに 岡山県東南部 香川県小豆郡 兵庫県明石市の一部)・美作(みまさかのくに 岡山県東北部)の守護、赤松満祐(あかまつ みつすけ)の屋敷を訪問しますが、義教は満祐に殺害されます。

持豊は抵抗せずに脱出すると、満祐を討伐するため、同族の山名 教清(やまな のりきよ)・山名 教之(やまな のりゆき)や嫡男の山名 教豊(やまな のりとよ)と共に但馬から播磨へ侵攻し、満祐の城山城の陥落に貢献します。

これにより、赤松氏の領国・播磨を加えた持豊の領土は5ヶ国となり、一族の教清・教之らの領土を合わせると、山名氏の領土は10ヶ国となり権勢を回復します。(嘉吉の乱)

1442年(嘉吉2年)には出家し宗峯と号し、後に宗全と改めます。(ここからは宗全で書きます)

東播磨の明石郡・美嚢郡・加東郡の3郡は、満祐の従弟・赤松満政(あかまつ みつまさ)が代官となっていました。

満政は嘉吉の乱では満祐に味方せず、満祐の討伐に功があり、3郡を支配していましたが、宗全と争い敗れ3郡も持豊のものとなります。

結局満政も持豊に討伐され、以後赤松氏一族はは山名氏と敵対し、播磨の領国奪回運動を続けることとなります

1443年(嘉吉3年)、嘉吉の乱で殺され山名 熙貴(やまな ひろたか)の娘を猶子に迎えて大内 教弘(おおうち のりひろ)に嫁がせると、1447年(文安4年)同じくもう1人の熙貴の娘を管領の細川勝元(ほそかわ かつもと)へ嫁がせることにより、大内氏、細川氏と縁戚関係を結び政敵の畠山持国(はたけやま もちくに)対抗しました。

その結果、宗全は1545年(享徳3年)に起こった畠山氏のお家騒動で足元が揺らいだ持国を失脚させることに成功し、勝元と共に幕政の頂点に立ちます。

しかし、同年11月2日に持豊は赤松氏の出仕を巡り、8代将軍足利義政(あしかが よしまさ)と対立すると、宗全討伐を命じられた諸大名の軍勢が京都に集まり宗全は危機を迎えますが、勝元の取り成しにより中止され、宗全は家督と守護職を嫡男の教豊に譲り領国の但馬へ下ります。

また、赤松満祐の甥・赤松 則尚(あかまつ のりひさ)が播磨で挙兵し、教豊の子で宗全の孫にあたる山名政豊(やまな まさとよ)を攻撃します。

宗全は但馬から出兵して則尚軍を破ると、則尚を自害に追い込みました。

但馬で4年を過ごした宗全は、1458年(長禄2年)には赦されると再び上洛し幕政に復帰しました。

息子達との対立

宗全は各家の家督相続に干渉しています。

管領家の1つ畠山家での内紛では、畠山 政長(はたけやま まさなが)畠山義就(はたけやま よしなり)家督相続問題が起こり、宗全は義就を支持したため、長男・教豊との対立が起こり、教豊は播磨へと下っていきます。(その後は和解したようですが)

次男の山名是豊(やまな これとよ)との関係は不仲で、この後に起こる応仁の乱では、是豊は細川勝元のいる東軍につき父と戦っています。

この頃、もう1つの管領家・斯波家でも内紛が起こっており、宗全は斯波 義廉(しば よしかど)を支持し、斯波 義敏(しば よしとし)を支持する勝元と対立が深まります。

一方、斯波 義廉や大内氏・一色氏などの反細川勢力は、次第に宗全と関係を深めていき、宗全は反細川勢力の盟主的存在となっていきます。

応仁の乱

1465年(寛政6年)、将軍・足利義政の正室、日野富子(ひの とみこ)が男児を出産し、息子を将軍としたい富子は宗全に接近します。

1466年(文政元年)、まず、宗全は勝元と協力し、政所(まんどころ 財政と領地に関する訴訟を掌る職)執事(長官)伊勢 貞親(いせ さだちか)と義政の政治顧問である季瓊 真蘂(きけい しんずい)を失脚させます。(文政の政変)

同年、自派の畠山義就を上洛させると、将軍に対面させます。

1467年(応仁元年)には管領・畠山政長が失脚し、山名派の斯波義廉が管領となります。

さらに御霊合戦(ごりょうがっせん)では義就に加勢し、政長を駆逐します。

しかし勝元方もも巻き返しを図り、宗全と対立する赤松 政則(あかまつ まさのり)が播磨へ侵攻したのをはじめ、是豊も備後へ侵攻し双方の衝突が起こり、5月26日の上京の戦いをきっかけに応仁の乱が始まります。

宗全は各国から集結した西軍を率い、京都へ進軍しましす。

それでも、最初は東軍に将軍を押さえられており、劣勢でした。

8月に周防(すおうのくに 山口県東南半分)から大内政弘(おおうち まさひろ)が合流すると一進一退となります。

1472年(文明4年)には和平交渉が行われますが、赤松政則の抵抗により失敗し、5月には自害を試みています。

応仁の乱の頃の宗全は60歳を超えており、若い頃の剛毅な性格は見られなくなっていました。

1470年(文明2年)6月には、宗全が東軍に降伏するとか、大内政弘が赦免を望んでいると言った噂が流れ、西軍の結束が乱れます。

さらに西軍が擁立した足利義視(あしかが よしみ 将軍・義政の弟)と畠山義就に不和が生じ、8月には山名一族の山名教之が東軍に付くという噂まで流れました。

このためか、宗全は孫の政豊に家督を譲ります。(この時点で嫡男・教豊は亡くなっていました)

1473年(文明5年)1月、一族の重鎮である教之が死去すると、後を追うように3月18日には病死します。享年70

墓所は南禅寺塔頭の真乗院

宗全の死後

宗全の死から2ヶ月後の5月11には東軍の盟主・細川勝元も死去します。

互いに頭を失った両軍は、宗全の孫・政豊と勝元の子・細川政元(ほそかわ まさもと)の間で和睦が成立しました。

東西両軍はこの後も戦いますが、1477年(文明9年)には集結します。

しかし、山名氏と赤松氏の関係は改善せず、政豊は和睦後も播磨・備前・美作を巡って赤松政則と衝突すると政則に勝利して一時は3ヶ国の大半を制圧します。

その後は政則の反撃にあい劣勢になると播磨から撤退し、3ヶ国は政則が領有しました。

山名氏の領土では国人勢力が力をつけるようになり、山名氏の勢力は衰退していきます。

宗全関連の城

「日本のマチュ・ピチュ」とも呼ばれる竹田城は1431年(永享3年)に宗全の築城によるとの伝承があり、家臣の太田垣氏(おおたがきし)が城主を務めました。

                  竹田城跡

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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