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今日は何の日?
1490年(永徳2年)1月7日は足利8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ)
1491年(永徳3年)1月7日は義政の弟・足利義視(あしかが よしみ)の命日です。
兄の死から1年後の同日に弟が亡くなるなんて、凄い偶然ですね。
義政は足利6代将軍・足利義教(あしかが よしのり)の5男として1436年(永享8年)1月2日に出生しています。母は側室の日野重子(ひの しげこ)。
一方、義視は義教の10男として1439年(永享11年)閏1月18日に出生しています。母は、正室に仕えてた女房の小宰相局(こさいしょうのつぼね)。
どちらも、側室の子ですが、正室には男児がありませんでした。
長男は、義政と同じ重子から生まれた義勝(よしかつ)です。
他には政知(まさとも)という兄もおりましたが、母の身分の関係で、重子の子である義勝が家督相続の対象でした。
政知には、足利氏の通字である「義」が入ってませんからね。政知は義政から「政」の一字を受けています。
いづれにせよ足利氏では、家督相続者以外は全て僧侶となることになっていました。
義政8代将軍へ
しかし、1441年(嘉吉元年)6月24日、父・義教が赤松満祐(あかまつ みつすけ)に殺害されてしまいます。(嘉吉の乱)
義勝が7代将軍として跡を継ぎますが、1443年(嘉吉3年)7月12日に死亡してしまいます。
その為義政は、管領・畠山持国(はたけやま もちくに)の後見で僅か8歳で8代将軍となります。
14歳で政務をとった義政は、守護大名の相続問題に積極的に介入します。
加賀国(かがのくに 石川県南部)の守護大名だった富樫氏(とがしし)の内紛や1454年(享徳3年)の畠山氏(はたけやまし)のお家騒動など。
1455年(享徳4年)には関東で鎌倉公方・足利成氏(あしかが しげうじ)が関東管領・上杉 憲忠(うえすぎ のりただ)を暗殺したことをきっかけに享徳の乱が起こります。
義政は幕府軍を派遣し、鎌倉を攻めさせ、成氏は古河へと逃れました。(古河公方)
そして兄の政知を鎌倉公方として派遣しますが、政知は鎌倉には入れず、伊豆国(いずのくに 静岡県伊豆半島・伊豆諸島)の堀越に留まることになります。(堀越公方)
義政側近の伊勢貞親(いせ さだちか)が急速に影響を強めてくると、義政の新政は強化されていきます。
文政の政変
1464年(寛正5年)義政は、それまで仏門にあった弟の義尋(ぎじん)を還俗させ、足利義視と名乗らせ、養子として次期将軍に決定します。
しかし、1465年(寛正6年)11月、妻の日野富子(ひの とみこ)に男児(後の足利義尚 あしかが よしひさ)が生まれます。
義尚の将軍を望む富子は、実力者の山名宗全(やまな そうぜん)と結び、義視は管領の細川晴元(ほそかわ はるもと)と結びます。
しかし、伊勢貞親ら義政側近は、義政の将軍継続を望み、宗全や勝元らと対立します。(3派に分かれたわけですね)
1466年(文政元年)9月5日、貞親らは義視の排除に動きます。
義政に義視の謀反の疑いを訴え、義視を切腹させようとしました。
義視は無実を訴えると、逆に貞親・季瓊真蘂(きけい しんずい)・赤松政則(あかまつ まさのり)ら側近が讒訴(ざんそ)の罪で失脚します。
これにより、権力を拡大した宗全と勝元が対立するようになります。
応仁の乱と義視の出奔
1467年(応仁元年)1月18日、畠山氏の家督相続が発端となり、御霊合戦(ごりょうがっせん)が発生します。
義政と義視は畠山義就(はたけやま よしなり)を支援し、畠山政長(はたけやま まさなが)を支援した勝元の面目を失わせました。
5月に山名軍と細川軍の戦闘が始まり、義政は当初停戦命令を出しますが、東軍の勝元に将軍旗を与え西軍の宗全追討を命じます。
その際、義視は東軍に属し、主将となります。
しかし、義政が失脚していた貞親を呼び戻したことで反発し、西軍に身を投じます。
西軍でも幕府が創設され、義視は「公方様」と呼ばれています。
これに激怒した義政は義視や側近の官職を剥奪し、朝敵として追討の対象とします。
1473年(文明5年)西軍の山名宗全、東軍の細川晴元が死ぬと、義政は12月19日に義尚に将軍職を譲り正式に隠居します。
しかし義尚は幼く、実権は義政にあり、政務は引き続き行いました。
1476年(文明8年)義政が西軍の大内政弘(おおうち まさひろ)に和睦の書状を送ると、義視も交渉を開始します。
義視は義政に他意のないことを伝える書状を送り、富子に政弘を通して和睦の仲介料を払い、自身の娘を富子の猶子にしてもらいます。
しかし、義政との関係は溝が埋まらず、西軍が解体されると、息子の義材(よしき)を伴って、美濃国(みののくに 岐阜県南部)の土岐成頼(とき しげより)のもとに亡命します。
翌年には、義政に許されますが、美濃に留まり続けています。
義政の晩年と義視の復権
1479年(文明11年)には義尚が政務をとりますが、義政は権限を手放さず、奇行に走った義尚が出家騒ぎを起こしています。
義政は1481年(文明13年)に長谷の山荘に移り、東山山荘の建築を本格化させます。
祖父・義満(よしみつ)が建てた金閣寺をベースに銀閣寺を建てました。
そして、1482年に義尚に政務を譲ることを表明します。
また、古河公方・足利成氏と和睦し20年以上続いた京都と関東の騒乱に終止符を打ちました。
ある程度東山山荘が完成すると、移り住み義政は「東山殿」義尚は「室町殿」と呼ばれることになります。
なかなか政務の権限を手放さない義政でしたが、1485年(文明17年)にも、義尚の側近が義政の側近と武力衝突する事件が起きており、義政と義尚の対立が激化しました。
そこで、義政は6月に出家し、改めて政務からの引退を表明しました。
1487年(長享元年)1月、義視は息子・義材の元服を行います。
8月には、義材は従五位下左馬頭に叙位任官されていますが、これには義尚に子がいなかったことを憂いた富子の意向がありました。
義材を義尚の養子とする案もあったようですが、実行はされませんでした。
1489年(長享3年/延徳元年)3月26日に義尚が遠征先の近江国(おうみのくに 滋賀県)で亡くなると、義視は義材と上洛し、富子の住む小川殿に移ります。
これにより、富子の支持を受けていることを明らかにしました。
4月27日、義視は出家して道存(どうぞん)と号します。
このころは義政が政務をとっていましたが、8月に倒れると、10月8日にも再度倒れました。
10月22日に義視・義材父子は、義政と応仁の乱以来の対面を果たしました。
1490年(延徳2年)1月7日、義政は銀閣寺の完成を待たずして病死します。享年55
足利義政の墓
義視、大御所となる
4月29日、富子は小川殿を政知の子である清晃(せいこう 後の足利義澄 あしかが よしずみ)に与えます。
さらに富子は細川政元(ほそかわ まさもと)と相談して、清晃を次の将軍に擁立しようとする噂が立ちました。
すると、義視は小川殿を破却させ、富子の所領まで奪います。
7月5日に義材は10代将軍となり、義視は将軍の父(大御所)として政務をとります。
しかし、10月7日には妻・日野良子(ひの よしこ)を失い、自身も腫物を患い、1491年(延徳3年)1月7日に通玄寺で死去します。享年53
僅か半年ばかりの大御所時代でしたね。
義視の死後
この後の義材は側近を重用し、独裁的志向を強めます。
これが富子や諸大名の反感を買い、義視の死の2年後の1493年(明応2年)には清晃を擁立し、義材は都落ちしていくことになります。
それ以来、将軍職は、義政の系統でも義視の系統でもなく政知の系統に移っていくのです。
スマイリー
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