浅野長矩と吉良上野介の対立で起こった赤穂事件は仇討ち?

今日は何の日?
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今日は昨日に引き続き書きます。「今日は何の日?」

1703年2月4日 江戸幕府が赤穂浪士46名に切腹を命じる。
これは、テレビでも有名な忠臣蔵、赤穂事件です。

赤穂事件の概要

元禄14年3月14日(1701年4月21日)、浅野内匠頭長矩が江戸城松の大廊下で吉良上野介義央に切りかかった事を発端とします。

事件当時は、江戸城で朝廷の使者を接待していた最中だったので、このことに対し、5代将軍徳川綱吉が怒り、即日切腹を言いつけます。

浅野長矩が藩主を務める赤穂藩は改易され、赤穂城も引き渡しを求められます。

一方の吉良家には何のお咎めもなく、浅野家に対して不公平感がありました。

吉良上野介が刀を抜くことがなく、逃げようとした為、喧嘩ではない被害者と判断され、喧嘩両成敗が適用されませんでした。

赤穂藩内ではこの沙汰に反発もありましたが、筆頭家老である大石内蔵助は、まずは幕府に恭順の意思を示すため、赤穂城を引き渡すことにします。

これには、長矩の弟の浅野大学が家督を継ぎ再興する可能性を期待したからです。

しかし、江戸では吉良上野介を討取ろうとする一派もいて、意見もまとまってませんでした。

そのうち、弟の浅野大学が閉門が決まり、浅野家の再興の可能性がなくなると、大石は京都の丸山で会議を開き、吉良邸に討ち入ることを表明します。(丸山会議)

そして元禄15年12月14日(1703年1月30日)、吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討取ります。

その時参加していたのが、大石内蔵助以下47人で、泉岳寺の旧主の墓前に上野介の首を供えます。


浅野長矩と赤穂浪士の墓のある泉岳寺

事を成就した一党は幕府に報告し、1人を除く46人が切腹しました。(1人寺坂右衛門と言う人物はその時いなかった為)

一般にこの赤穂浪士の行為は仇討ちと言われますが、基本的には仇討ちは子供が親の敵を討つなど、血縁関係がある目上の親族の為に行う復讐で、主従関係の場合は仇討ちとするか単なる復讐とするかで論争があります。


浅野長矩とは

                浅野長矩

播磨赤穂藩(今の兵庫県)3代藩主

寛文7年8月11日(1667年9月28日)-元禄14年3月14日(1701年4月21日)享年35

延宝3年(1675年)、父の死によりわずか9歳で家督を継いで藩主となっています。

天和3年(1683年)には、天皇の使者を迎える為の1度目の饗応役(接待する役)を務めますが、この時指南役として吉良上野介が付いて無事務め上げます。

この後、備後三次(今の広島県)藩主・浅野長治の娘・阿久里と結婚しますが、子供がなかった為、元禄7年(1694年)には弟の浅野大学を仮養子とします。

そして元禄14年(1701年)には2度目の饗応役に就きます。

この時も、吉良上野介が指南役となりますが、遂に事件が起きてしまいます。

切りかかった理由は色々と説がありますが,賄賂説が有名です。

浅野が吉良に対して賄賂を贈らなかった為、吉良より嫌がらせを受けたらしく、それが積もり積もってとのようです。

しかし、一説には浅野長矩は癇癪持ちという性格だったらしく、それが原因となったかもしれません。

いずれにせよ「遺恨あり」としか取り調べで答えなかったので、理由はよく分かりません。

吉良上野介とは

一方の被害者となった吉良上野介は江戸時代の旗本。

寛永18年9月2日(1641年10月5日)ー元禄15年12月15日(1703年1月31日)

石高はたったの4200石の旗本の出ではありますが、元は足利家一族の今川家出身で、清和源氏の流れを引いています。

その為、高家と言う儀式や儀礼を司る役職に就き、他の武士に比べ格式が高く、名門の家柄と言われるものでした。

万治元年(1658年)米沢藩主(今の山形県)上杉綱勝の妹と結婚し、2男4女に恵まれます。

寛文4年(1664年)に子供のいない義兄の上杉綱勝が亡くなると、上杉家が改易(取り潰し)危機に陥った為、長男の三之助を養子に出し、上杉綱憲となります。

寛文8年には父の死により家督を相続します。

しかし、今度は跡を継ぐ男子がなくなり、吉良家の存続が危うくなったので、養子に出した綱憲の次男・春千代を吉良義周と改名させ養子とします。(つまり孫を養子とした)

義周にとってこれが悲劇でした。

吉良上野介が討たれた時、義周も側にいて戦っており、面と背中に傷を負いますが、一命はとりとめます。

赤穂事件のその後

この時の対応が幕府によって「不届者」とされ、吉良家は取り潰されて、義周も信濃の国(今の長野県)へ他家に預けられます。

城の一角に幽閉され、病弱だった義周は2年後21歳の若さで亡くなってます。

多分どうすることもできなかったでしょう。逃げることもできなかっただろうし。

その点では吉良家で最大の被害者だと思います。

また、討ち入りした赤穂浪士の遺児達も15歳以上は伊豆大島に流されています。

但し、将軍綱吉が死ぬと、浅野大学や浪士の遺児らは許されて、家を再興することができています。

それを考えると、最初の将軍の判断が公平に行われてなければ、これほど多くの者が不幸になることはなかったのではないでしょうか。

主君と家来の関係や、親子などの親族関係で自らまでに影響が及んでしまう武士の時代ってどうなんだろうと思います。

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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