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過去に讒言で人生を狂わされた人がなんと多いことでしょう。
その中で、恨みが強すぎて神に祀られた政治家、菅原道真。
今日1月25日は菅原道真が太宰権帥(大宰府の役職)として左遷された日です。
菅原道真の生涯
丞和12年6月25日(845年8月1日)-延喜3年2月25日(903年3月26日)
父、菅原是善の3男として奈良で生まれる。但し、これは1説で場所は定かではありません。
菅原氏は学者の家系、母は伴真成の娘。
伴氏と言うと、大友旅人や家持らの歌人を出した家で有名です。
しかし、当時の菅原家は中流の貴族でした。
道真は幼少より詩歌の才能があり、862年に18歳で文章生(文学を教える文章博士の候補生)となり出世を重ねていきます。
菅原氏は学者の家なので、私塾を開いており、門人が朝廷の中で100人を超える文人社会で中心となっていましたが、道真が認められるきっかけとなったのは、888年の阿衡事件でしょう。
当時の天皇、宇多天皇と藤原基経との間で起こった政治紛争。
宇多天皇が藤原基経を関白に任命した際、阿衡と言う中国の官位が政治的に実権を持たない官を引き合いに出して、経基を怒らした事件。
これを道真が取り持ち事件を収拾させて、宇多天皇の信任が高まり、以後要職に就いていきます。
宇多天皇としては、力を持っていた藤原氏から権力を取り戻したい、そして経基が亡くなると、その後に藤原氏の有力者が出てこなかったことで、これをチャンスと捉えたのかもしれません。
経基の子である時平がまだ若かった為、道真を用いることで藤原氏を牽制しました。
894年には遣唐大使となった際、唐の国の混乱や日本文化の発達を理由として建議(意見)を行い、遣唐使を廃止してます。
907年には唐が滅んでしまったので、道真のこの判断は正しかったのですね。
896年には自分の長女を宇多天皇の女御とし、897年には三女を宇多天皇の皇子の妃とするなど、皇族との婚姻関係を強めてます。
(この辺りは、藤原氏がやってきた事と同じ。)
また、遂に藤原時平と同じ大納言となり、この2人が太政官のトップとなりました。
同じ年に宇多天皇から子の醍醐天皇へと譲位され、道長も899年には右大臣となりますが、宇多天皇との信頼関係は醍醐天皇には引き継がれなかったようです。
昌秦の変
そして901年に事件は起こります。
その年、醍醐天皇を廃立して、娘婿の斉斉親王を皇位に就けようと謀ったという密告がなされたのです。
これにより右大臣という地位から太宰権帥と左遷される命令が出され、大宰府へ向かうこととなります。またこの事件で、道真の4人の子が流刑に処されてます。
この件を聞いた宇多天皇は醍醐天皇に面会しようとしたが、拒否されています。
左遷後は大宰府で謹慎しており、903年に亡くなり、安楽寺に葬られました。享年59歳。
道真の死後
909年、藤原時平が病死
913年、右大臣・源光が狩りの最中泥沼の沈んで溺死
923年、醍醐天皇の皇子で時平の甥でもある保明親王が死亡
925年、保明親王の子で時平の外孫である慶頼王が病死
930年、清涼殿落雷事件で昌秦の変に関与した藤原清貫はじめ多くの朝廷の臣 が死傷。醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後には崩御。
これを祟りと恐れた朝廷は、道長の罪を許すとともに、贈位し、流刑された子供達も京都に呼び戻されます。
923年には右大臣に復活し、70年後の993年には左大臣、そして太政大臣を受けてます。個人的には死後受けてもねぇという感じですが。
清涼殿の落雷事件以降、道真の怨霊は雷神と結びつけられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野に北野天満宮を建立します。
そして、大災害が起こるたびに道真の祟りと恐れられます。
こうして、「天神様」として信仰が全国に広がることになりました。
参考
太宰権帥と太宰員外帥
太宰権帥は大宰府の長官です。これに対し菅原道真のように左遷された者は太宰員外帥と呼ばれ、名ばかりの役職で両者は区別されています。
スマイリー
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