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今日は何の日?
1561年(永禄4年)2月19日は井伊直政の誕生日です。
井伊直政
父は井伊直親(いい なおちか)、母は奥山朝利(おくやま ともとし)の娘・ひよ 幼名は虎松(とらまつ)
上野国(こうずけのくに 群馬県)高崎藩初代藩主であり、のちに、近江国(おうみのくに 滋賀県)彦根藩の初代藩主です。
井伊直政(いい なおまさ)と言えば、本多忠勝(ほんだ ただかつ)や榊原康政(さかきばら やすまさ)らとともに必ず名前が出てくる徳川家康(とくがわ いえやす)の家臣で徳川三傑の1人です。
徳川四天王となると、これに酒井忠次(さかい ただつぐ)が加わります。
井伊氏の出自
井伊氏は、古くは藤原氏を先祖に持つ国人(その土地の住民)領主の家柄です。
井伊 共保(いい ともやす)という人物が、遠江国(とおとうみのくに 静岡県大井川以西)の井伊谷(いいのや 現在の静岡県浜松市北区)に居館を構えて井伊氏と名乗ったのが始まりとされています。
今川氏へ臣従時代
井伊氏は代々、今川氏に仕えていました。
井伊氏一族で、直政の祖父である直満(なおみつ)も同様に今川氏に仕えますが、井伊氏の重臣である小野政直(おの まさなお)の讒言(ざんげん 密告の事)により、主君の今川義元(いまがわ よしもと)に討たれてしまいます。
その時、幼かった父の直親も殺されるところでしたが、家臣の助けで信濃国(しなののくに 長野県、岐阜県の一部)へ逃れることができました。
この頃の井伊家の当主は直盛(なおもり)という人物で、この人には継ぐことのできる男子がいなかった為、直親が養子となり井伊家を継ぐことが決定していました。
しかし、政直はこの決定には不満で、直満との仲も悪く、これが讒言へと繋がったようです。
そして政直が死ぬと、直親はようやく井伊谷に復帰します。
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれた時、直盛も戦死しており、直親が井伊家を継ぐことになりました。
しかし、義元を失った今川家は力を失ってきており、直親も今川氏から独立した徳川家康に近づくようになります。
それを知った小野政次(おの まさつぐ 政直の子)は今川氏真(いまがわ うじざね 義元の子)に直親の謀反の讒言をします。
氏真は家臣の朝比奈泰朝(あさひな やすとも)に直親を殺させました。
つまり、讒言した方も、された方も、討った方も全て親子2代で関わってますね。
氏真も幼い直政を殺させようとしますが、周りの助命嘆願により助かることができました。
2代続けて当主を失った井伊家では、直盛の娘だった次郎法師(じろうほうし)が還俗して直虎(なおとら)と名乗り、当主となります。
(NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」で柴咲コウさんが演じてましたね)
直政は命の危険もあり、寺に匿われて出家することになります。
家康に出仕
1574年(天正2年)直政が父・直親の13回忌で龍潭寺(りょうたんじ)の来た時、直虎、ひよ、らが相談し、直政を家康に仕えさせることにしました。
まず、直政が寺に帰ることがないように、ひよが徳川氏家臣の松下清景(まつした きよかげ)に嫁ぎ、直政も清景の養子となり、松下虎松(まつした とらまつ)と名乗ります。
家康に見いだされた直政は、井伊氏に復するのを許され、井伊万千代(いい まんちよ)と改めます。
旧領の井伊谷の領有も認められ、家康の小姓として取り立てられました。
22歳で元服し、滅亡した武田氏の旧臣たちを加えて部隊を編成します。
これらは武田氏家臣の山県昌景(やまがた まさかげ)の軍装を継承し赤で統一させており、井伊の赤備えと呼ばれました。
1584年(天正12年)の小牧長久手の戦いで武功を上げると、名を知られるようになり、諸大名からは「井伊の赤鬼」と恐れられます。
1586年(天正14年)に家康が豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)に臣従し上洛すると、秀吉は直政の武勇・政治的手腕を高く評価し、従五位下に叙位させ豊臣の姓を下賜しました。
また、1588年(天正16年)4月の聚楽第行幸(じゅらくだい ぎょうこう)の際には、昇殿が許される侍従の身分に任官し、徳川家家臣の中で最も格式の高い重臣となりました。
その後、1590年(天正18年)の小田原征伐での活躍や、奥州の九戸政実の乱(くのへ まさざねのらん)では先鋒を務め、家康が江戸に入ると、直政は上野国箕輪城(みのわ)・12万石の大名となりました。
これは徳川家臣最高の石高です。
1599年(慶長3年)秀吉が死去すると、豊臣方の武将を徳川方の味方に引き入れ、特に黒田官兵衛(くろだ かんべえ)長政(ながまさ)父子とは、盟約を結ぶまでの関係を築いています。
この黒田家を通して、多くの武将を親徳川に引き入れました。
関ヶ原の戦い~晩年
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に軍監に任命され、東軍の中心的存在となります。
諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけで多くの武将が東軍に取り込まれました。
戦が勝ちに近づくと、退却する島津義弘(しまづ よしひろ)を追撃し、義弘の甥の島津豊久(しまづ とよひさ)を討ち取ります。
更に追撃しますが、鉄砲で足を撃たれ、大怪我で落馬してしまいました。
怪我の身にも拘らず、戦後処理では西軍の総大将だった毛利輝元(もうり てるもと)との講和交渉を務め、毛利家を周防国(すおうのくに 山口県東南半分)・長門国(ながとのくに 山口県西半分)の2ヶ国を安堵することに尽力します。
また、土佐国(とさのくに 高知県)の大名・長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)とは懇意にしていたこともあり、元親の子盛親(もりちか)が西軍に与することとなった事の謝罪の取次も仲介しています。
しかし、盛親は家臣の讒言で兄を殺したため、所領没収となり、その際には家臣を派遣して城を接収しています。
これらの功により、石田三成(いしだ みつなり)の旧領だった近江国佐和山城・18万石を与えられ、従四位下に叙位されます。
しかし、1602年(慶弔7年)2月1日、彦根城を築城中に佐和山城で亡くなりました。享年42
遺体は当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘にふされ、その跡地に長松院が建立されています。
長松院
井伊家の家督は病弱だった長男の直勝(なおかつ)でなく、次男の直孝(なおたか)が継ぎます。
また、彦根城が完成すると、佐和山城は廃城となりました。
直政の人物像
・直政は美男子であったそうですが、気性が激しく部下に対してもささいな失敗で手打ちにするなど厳しかったようです。
その為、「人切り兵部」とも呼ばれていました。
部下の中には、直政の元から出奔するものも多く、筆頭家老でさえ直政を恐れ、家康の部下に戻してほしいと家康に嘆願したほどです。
・直政は人一倍負けず嫌いでしたが、正室の唐梅院(とうばいいん)にだけは頭が上がらなかったようです。(唐梅院が家康の養女だったからでしょうか?)
・57回の戦に参加し、軽装備でも生涯1度も傷を負わなかった本多忠勝に対し、重装備にもかかわらず直政は常に傷を負っていました。
忠勝と直政は度々比較されますが、あまり仲は良くありませんでした。
一方、直政は、忠勝と同年齢の榊原康政とも最初はあまり仲良くありませんでしたが、共に行動することが多くなると段々仲良くなったようです。
康政は「大御所(家康のこと)の御心中を知るものは、直政と我ばかりなり」と語っており、直政が従軍するとあれば、康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政は安堵したといいます。
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スマイリー
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