領土拡大を目指し戦い続けた甲斐の虎・武田信玄の一生 後半

今日は何の日?
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今日は何の日?

1573年(元亀4年)4月12日は武田信玄の命日 後半です。

 

 

武田家、外交方針の転換

駿河(するが 静岡県中部・北東部)の今川氏、相模(さがみ 神奈川県大部分)の北条氏と三国同盟を結び、領土拡大してきた武田氏ですが、1560年(永禄3年)5月に大事件が起きます。

今川義元(いまがわ よしもと)桶狭間の戦い尾張(おわり 愛知県西部)の大名・織田信長(おだ のぶなが)に討ち取られたのです。

跡を今川氏真(いまがわ うじざね)が継ぎますが、今川氏支配下の三河(みかわ 愛知県東部)では松平元康(まつだいら もとやす 後の徳川家康 とくがわ いえやす)が独立するなど動揺が見られました。

武田氏は領国を美濃(みの 岐阜県)の大名・斎藤氏(さいとうし)と接しており、織田氏も斎藤氏と抗争中だったため、信長は武田氏との関係強化を模索します。

武田氏としても木曽・東美濃地方における両勢力の対立を避けたかったという事情がありました。

こういう経緯で息子の武田勝頼(たけだ かつより)の正室に信長の養女が迎えられます。

この養女は武田信勝(たけだ のぶかつ)を出産しますが、直後に死亡しました。

その為か今度は信長の嫡男・織田信忠(おだ のぶただ)と信玄の娘・松姫(まつひめ)の婚姻が成立しています。

このことは今川氏との関係に緊張関係を生みました。(当然ですね、義元の仇ですから)

信玄の嫡男・武田義信(たけだ よしのぶ)は今川義元の娘を妻に迎えていましたから、親今川派でしたが、織田氏との関係を望む信玄とは対立してしまします。

1564年(永禄7年)、義信の傅役(もりやく 世話係)の飯富虎昌(おぶ とらまさ)や側近の長坂昌国(ながさか まさくに)曽根虎盛(そね とらもり)らが信玄の暗殺を謀ります。

しかし、この謀は飯富源四郎(おぶ げんしろう 山県昌景 やまがた まさかげ)により発覚し、虎昌は処刑されました。

義信も廃嫡され、甲府の東光寺に幽閉されます。(義信事件)

義信の妻は離縁させられ、今川氏の元に帰されます。

義信は1567年(永禄10年)10月19日に亡くなっています。

三国同盟破綻

同年、今川氏は甲斐に対して塩止めを行い、三国同盟は破綻しました。

信玄は、1568年(永禄11年)12月に遠江(とおとうみ 静岡県西部)の今川領分割を徳川家康と約束し、共同で駿河侵攻します。

武田軍は薩埵峠(さったとうげ)で今川軍を破り、今川館を一時占拠しました。

信玄は駿河侵攻に際して、北条氏康(ほうじょう うじやす)にも協調を持ち掛けますが、氏康は逆に氏真救援の兵を出し、武田氏との同盟は解消されます。

更に氏康は敵だった上杉謙信(うえすぎ けんしん)とも同盟を結び(越相同盟 えつそうどうめい)武田氏に圧力をかけます。氏康にとって信玄のこの行動はよほど許せなかったのでしょう。

更に共同侵攻して徳川氏とは遠江領有で対立し、1569年(永禄12年)5月、徳川氏は今川氏と和睦して家康は駿河侵攻から離脱しました。

この氏康の仕打ちに対し、信玄も反撃を開始します。

まず、織田信長が奉じていた15代将軍・足利義昭(あしかが よしあき)に上杉謙信との和睦の仲介を求め、1569年(永禄12年)8月には和睦が成立します。(甲越同盟 こうえつどうめい)

次に、越相同盟に対抗すべく、常陸(ひたち 茨城県の大部分)佐竹氏(さたけし)下総(しもうさ 千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県東部・東京都東部)簗田氏(やなだし)ら反北条氏勢力と同盟を結び北条氏に圧力をかけます。

同年10月には北条氏の小田原城を一時包囲し、退却時に三増峠の戦いで北条軍を撃退しました。

甲相同盟回復

こうした対応策から北条氏は武田氏・上杉氏との関係改善に方針転換しました。

1569年(永禄12年)年末には信玄は再び駿河侵攻を行い、駿河を掌握します。

1571年(元亀2年)10月3日、かねてより病で伏していた北条氏康が死去します。

氏康は跡を継いだ北条氏政(ほうじょう うじまさ)「再び武田と和睦せよ」と遺言しました。

氏政は、父の遺命し従い謙信との同盟を破棄し、弟の北条氏忠(ほうじょう うじただ)北条氏規(ほうじょう うじのり)を甲斐に人質に出して、12月3日に甲相同盟(こうそうどうめい)を回復しています。

信長との関係悪化

中央では、足利義昭を奉じて上洛した織田信長でしたが、両者の関係が悪くなり、義昭は信長討伐の御内書を信玄はじめ各地の大名に発送しています。

1570年(元亀元年)12月武田家臣の秋山虎繁(あきやま とらしげ)は徳川氏を攻めるが、織田・徳川連合軍により敗れました。(上村合戦)

1571年(元亀2年)2月には、信長の勢力拡大を恐れた信玄は、信長の盟友・家康を討つため大規模な遠江・三河侵攻を行います。

武田軍は小山城、足助城(あすけじょう)、田峯城(だみねじょう)、野田城、二連木城(にれんぎじょう)と落としますが、信玄が血を吐いたため甲斐に戻りました。

同年、信長による比叡山焼き討ちが行われると、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐(かい 山梨県)に移して再興しようとします。

天台座主(てんだいざす 延暦寺の住職)覚恕(かくじょ)も甲斐に亡命し仏法の再興を信玄に懇願します。

覚恕を保護した信玄は、権僧正という位を与えられました。

織田家との同盟破れる

1573年(元亀3年)10月3日、信玄は将軍・義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発します。

信玄は隊を分け、山県昌景・秋山虎繁の支隊には、徳川氏の三河へ向かわせ、本隊は馬場信春(ばば のぶはる)と遠江へ入ります。

昌景の支隊は柿本城・井平城を落とすと信玄に合流し、虎繁は信長の叔母・おつやの方が城主の岩村城を包囲します。

虎繁はおつやの方と結婚するという条件で降伏を促し、岩村城は武田軍に落ちました。(岩村城の戦い)

これに対し、信長は信玄と義絶します。

しかし、信長は浅井長政(あざい ながまさ)朝倉義景(あさくら よしかげ)石山本願寺(いしやまほんがんじ)らと対峙していた為、家康へ3000程度の援軍を送ることしかできずませんでした。

援軍を期待できなかった家康は、10月14日に武田軍との戦いで敗退ています。(一言坂の戦い)

12月19日には、武田軍は二俣城を攻め落とし、(二俣城の戦い)劣勢に追い込まれた家康は、浜松城に籠城しようとします。

浜松城を包囲せず、西上しようとする武田軍を見た家康は、城を出てしまいます。

遠江の三方ヶ原で12月22日に決戦を行った武田軍は、徳川軍を散々に打ち負かしました。(三方ヶ原の戦い)

 

しかし、ここで信玄は、浅井長政の援軍として北近江(きたおうみ 滋賀県)に出陣していた朝倉義景の撤退を知ります。

義景へ書状を送り、再出兵を求めますが、遂に義景は動きませんでした。

信玄は、軍勢の動きを止め浜名湖北岸の刑部(おさかべ)で年を越しますが、1573年(元亀4年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落としています。(野田城の戦い)

 

信玄の最期

信玄は、野田城を落とした頃から度々血を吐いており、病が悪化していました。

武田軍は行軍を止め、信玄は長篠城で療養しますが、近習、一門の合議で甲斐に撤退することになりました。

1573年(元亀4年)4月12日、甲斐に引き返す途上で信玄は死去します。享年53

辞世の句は「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」

『甲陽軍鑑』によると、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残します。

重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌豊(ないとう まさとよ)に対して後事を託し、特に山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したそうです。

家督を相続した勝頼は、遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿しました。

その後、1576年(天正4年)4月16日に勝頼により、恵林寺(えりんじ)で法要が行われました。

                信玄の菩提寺、恵林寺

 

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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