奥州藤原4代の祖・藤原清衡、中尊寺を建立。

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1105年2月15日 藤原清衡が奥州平泉に多宝寺(後の中尊寺)を建立

藤原清衡(ふじわらのきよひら)と言えば、清衡~基衡、秀衡の3代、泰衡まで入れると4代かな。奥州藤原氏の繁栄を築いた祖です。

           毛越寺所蔵の藤原清衡像

この清衡が後三年の役で亡くなった人たちを弔う為に立てた寺です。

藤原清衡は、前九年の役、後三年の役を言う東北で起こった2つの戦に関係しています。

前九年の役

永承6年(1051年)-康平5年(1062年)までに東北地方で起こった戦。結果、安倍氏が滅ぼされる。

この戦では、安倍氏と共に藤原経清はという人が処罰されていますが、この人が清衡の父にあたります。

藤原経清は東北地方の豪族で、陸奥の国の国府(役所)に役人として勤務していました。

当時の陸奥の国の国司(長官)は藤原登任(ふじわらのなりとう)と言う人物で、上司にあたります。

この人物が当時陸奥の国で力のあった安倍氏に目をつけ、討伐しようとした事から始まりました。

実は、藤原経清は阿部頼良(頼時)の娘を妻にしており、安倍氏と親族関係にあり上司と親族の板挟みにあいますが、安倍氏側について戦っています。

藤原登任は戦をしたものの、安倍氏に敗れ、国司を左遷されます。

そして後任の国司としてやってきたのが、源頼義(源義家の父)

一方、国司と戦ってしまった安倍氏は後に朝廷に許され服属すると、経清も役人として源頼義に従います。

しかし、事件が起き再び安倍氏が国と戦う状況になると、経清は最初は源頼義(みなもとのよりよし)に従って戦いますが、その頃同じく同僚であった平永衡と言う人物が謀反の疑いをかけられとして源頼義に殺害されます。

平永衡(たいらのながひら)も安倍頼義の娘を妻にしており、経清とは相婿だった訳です。

この事に不安を感じた経清はこの後、安倍氏と共に源頼義と戦うこととなります。

安倍氏の勢力は強かったので、最初は戦いに勝ってましたが、源頼義は同じ陸奥の国に力を持っていた清原氏を味方にし、そのおかげで勝利しました。

この戦いで加勢した清原武貞(きよはらのたけさだ)安倍氏に代わり奥州の覇者となり、なんと経清の妻を自分の妻とします。

清衡は母に連れられ、養子として清原家に入ります。つまり清原清衡という呼びにくい名前になった(笑)

この時、武貞には真衡(まさひら)という先妻の子がいましたが、経清の妻が後妻となることで、家衡(いえひら)が生まれ、清衡とは複雑な兄弟関係を形成して後三年の役へとつながります。

後三年の役

永保3年(1083年)-寛治元年(1087年)
清原氏一族の内紛から、清原氏が滅び、奥州藤原氏のでるきっかけとなった戦い。

              後三年の合戦絵巻

清原武貞の先妻の子である真衡は、父武貞が亡くなると家督を継ぎ、棟梁となります。

しかし、真衡には子供がいなかった為、平氏から養子を迎え、その養子に源頼義の娘とされる女性を妻とさせ、源氏・平氏と縁を持とうとしました。

源義家は源頼義の子でもありましたので、ここで義家とも縁を築けたわけです。

ここまでしてまで、家衡を排除したかったのかと思うと、兄弟愛が全く感じませんが。

この婚礼の場で、真衡は祝いに来た叔父を怒らせてしまい、それに怒った真衡は叔父を討伐しようとします。

この叔父は当然のように真衡と不仲だった家衡・清衡を仲間に誘います。

家衡・清衡は真衡の本拠地を攻撃しますが、真衡軍に加えてその頃、陸奥の国の国司となっていた義家が介入して戦った為、家衡・清衡側は負けて降伏します。

ところが真衡が急死してしまい、家衡・清衡は助かったばかりか、義家の裁定で真衡の所領まで分配されます。

僕の疑問としては、国の軍と戦うと、逆賊になってしまい滅ぼされるのが普通だし、なぜ義家が介入できたのかが不思議ですね。

清原氏と血のつながりがある家衡にとっては、養子とは言え、血のつながらない清衡に所領が渡るのは不満だったでしょう。

家衡は清衡の排除に動きだします。清衡の館を攻撃し、清衡の妻や子供まで殺害します。

助かった清衡は義家の力を借り、家衡と戦いますが、最初は負けてしまいます。

それでも、家衡の本拠を兵糧攻めにすることにより、食料不足に陥らせ、家衡も逃亡を図りますが、捕まって殺害され戦は終結します。

これによって一人残った清衡は清原氏の所領を全て受け継ぐこととなり、苗字も藤原に戻し奥州藤原氏の祖となりました。

一方、加勢した義家には朝廷より清原一族の私戦と看做されたため、恩賞もなく国司まで解任されてます。まさに天国と地獄。

               中尊寺本堂

 

こうやって生き残ってきた清衡は、兄弟・親族が争う事で多くの近親者の死を見てきました。

清衡が平泉に中尊寺を建立したのは50歳の頃でしたが、戦いに明け暮れた前半生に省み、戦没者の追善とともに造寺造仏・写経の功徳により、自己の極楽浄土を願ったのではと推測されています。

平安時代って藤原道長もそうですが、極楽浄土を願い、宗教に頼る傾向にありますね。

中尊寺は、源頼朝が藤原泰衡を討伐した時にほどんどが焼失し、清衡が建立したものは金色堂が残っているだけです。

その中には、清衡・基衡・秀衡の3代の遺体がミイラとして安置されてます。

 

 

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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