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7月3日の今日は何の日?
1578年 毛利氏が上月城を攻略し尼子氏が滅亡する。
播磨国(はりまのくに 兵庫県)にあった上月城は元々は赤松氏の城でした。
城主の赤松政範(あかまつ はるのり)は毛利氏に属していた為、上月城は毛利氏勢力圏の東方における最前線の城となっていましたが、天正5年に羽柴秀吉(はしば ひでよし)が攻め寄せた際に落城し(第一次上月城の戦い)、その後織田方に属していた尼子勝久(あまご かつひさ)・山中幸盛(やまなか ゆきもり)らが防衛を任されました。
尼子勝久は毛利氏に滅亡させられた尼子氏の生き残りで、京都で僧となっていましたが、尼子家臣の山中幸盛らに擁立され、尼子氏を再興を目指します。
尼子勝久
また、山中幸盛と言えば、鹿之助の名で有名で、生涯を尼子氏再興に掛けた勇将です。
尼子三傑の一人であり、尼子家再興の為に「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は有名です。
山中幸盛
上月城は織田方に移ってから一度、毛利方の宇喜多直家(うきた なおいえ)に奪還されますが、再び織田方が奪取しています。
しかし、当時の播磨国では表向きは織田方に臣従しながらも、立場を明確にしない別所長治(べっしょ ながはる)・小寺政織(こでら まさもと)らがおり、秀吉も懐柔に手を焼いていました。
天正6年(1578年)別所氏が毛利氏側に離反すると、大半の播磨の国人が同調し、別所氏の本拠地である三木城を中心に籠城の構えを取ります(三木合戦)。
その為、三木城が織田方・毛利方にとっても重要拠点となってしまいます。
しかし、毛利軍は宇喜多直家が求める上月城の再奪還に応じる事で、間接的に羽柴軍を牽制する方針を取ります。
この時の毛利側の動員兵力は宇喜多氏と合わせて3万以上とされ、姫路城に駐留する羽柴軍をはるかに凌いでいました。
別所氏の離反と毛利氏の出陣を受け、秀吉は直ちに織田信長(おだ のぶなが)に援軍を要請します。
播磨に近い摂津の荒木村重(あらき むらしげ)が援軍としてやってきますが、毛利軍がどこに現れるか分からず、秀吉は毛利軍の動向を探りつつ、三木城の攻略を開始し、支城の野口城を陥落させます。
一方、毛利軍は本陣を備中高松城に置き、吉川元春(きっかわ もとはる)・小早川隆景(こばやかわ たかかげ)らの主力が上月城に進軍し、4月18日に城を包囲します(第二次上月城の戦い)。
この時、上月城は総大将の尼子勝久以下2300~3000程の兵力しかありませんでした。
毛利軍が上月城に向かったとの報告を受けた秀吉は、三木城の攻撃を継続させつつ、手勢を率いて尼子軍支援のため高倉山に進出します。
対して毛利軍は積極的に攻めようとはせず、空堀や塹壕を掘り、塀を巡らして柵や逆茂木で防備を固め、完璧な防衛線を敷き、更に連日ほら貝や太鼓を鳴らし、兵糧攻めで城兵の戦意を喪失させる方針を取ります。
織田軍では織田信忠(おだ のぶただ)を総大将として滝川一益(たきがわ かずます)・佐久間信盛(さくま のぶもり)・明智光秀(あけち みつひで)・丹羽長秀(にわ ながひで)・細川藤孝(ほそかわ ふじたか)らが到着しますが、信長の意図は三木城攻略と毛利氏の足止めだったため、三木城の攻略に注力し、このため、秀吉も上月城に手が出せず、上月城は絶望的な状況に立たされます。
これに見かねた秀吉は6月16日に京都に向かい信長の指示を仰ぎますが、播磨平定を優先する信長の方針は変わらず、上月城は捨て駒とされます。
やむを得ず高倉山の陣を引き払う事になった秀吉は、尼子軍に上月城の放棄・脱出を促す書状を出しますが、尼子軍は徹底抗戦することを選びます。
6月25日、滝川一益・丹羽長秀・明智光秀らが毛利軍に備えるため三日月山に布陣し、羽柴軍・荒木軍は高倉山から書写山に陣を移します。
その際、熊見川で毛利軍の追撃を受け、羽柴軍は多大な打撃を受けました。
7月1日になり尼子軍は城兵の助命を条件に降伏・開城し、7月3日に尼子勝久・兄の尼子氏久(あまご うじひさ)・弟の尼子通久(あまご みちひさ)と勝久の長男・尼子豊若丸らが自刃させられます。
豊若丸の年は分かりませんが、勝久の享年が26ですから、まだ幼児だったかもしれません。
こういう時代なので仕方がないのかもしれませんが、敗者の大将を父に持つと気の毒ですね。
尼子再興軍の中心人物であった山中幸盛も捕虜となり、後に備後国(広島県)へ送られる途中、備中国(岡山県)で毛利家臣に殺害されます。
尼子氏の本拠地だった月山富田城には山中幸盛の銅像が立てられています。
太鼓壇公園に建つ山中鹿介幸盛の銅像
これにより70日に及んだ上月城攻城戦は幕を閉じ、一時期は山陰地方に勢力を誇っていた尼子氏は完全に滅亡しました。
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スマイリー
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