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今日は何の日?
11月2日織田信行、兄の信長に謀殺される。
織田信行(おだ のぶゆき)、織田信秀(おだ のぶひで)の子。母は土田御前(つちだ ごぜん)。兄に信長(のぶなが)がいます。
信秀には大勢の息子がおりましたが、正室・土田御前との子とはっきり分かっているのは、信長・信行の2人だけでした。
信行は一般には「信行」で有名ですが、「信勝(のぶかつ)」「達成(みちなり)」「信成(のぶなり)」と名乗っています。
後世の人が間違えたんですかね?
信行の生まれた織田家は、織田弾正忠家(おだ だんじょうちゅうけ)と言って、尾張半国の守護代・織田大和守家(おだ やまとのかみけ)の家臣でしかありませんでした。
あと半分は織田伊勢守家(おだ いせのかみけ)が守護代でした。
このように尾張の国は守護の下に2人の守護代、守護代の下に織田弾正忠家となっていました。
弾正忠家の当主だった信秀は急激に勢力を拡大し、主家の大和守家に対抗できるまでになっていました。
しかし、晩年になると、美濃(みの 岐阜県南部)や三河(みかわ 愛知県東部)に侵攻しますがいずれも敗退し、その支配が動揺していました。
この危機にあたり、1549年(天文18年)那古野城主だった信長を政務に関与させ、末森城の信秀と共同統治をする二元体制が築かれました。
1551年(天文20年)前半になると、信秀は病床に伏すようになり、その時に信行が信秀代わって登場する事になります。
信行は信秀と末森城におり、信秀を後ろ盾として尾張の統治権をある程度まで掌握していました。
信秀の死
1552年(天文21年)信秀が亡くなります。
信秀の葬儀の際、兄・信長は仏前で抹香を投げつけるという奇行をしますが、これに対し、信行は正装して礼儀正しく振る舞っており、2人は対照的でした。
信秀の死後、末森城を継承したのは信行です。
信行の居城末森城跡 (現在の城山八幡宮)
彼には柴田勝家(しばた かついえ)や佐久間大学(さくま だいがく)らの弾正忠家の重臣が付されていました。
信長は弾正忠家の家督を単独で継承したとされていますが、この時点では当主として確固たる地位を築いているわけではありませんでした。
信行は叔父の守山城主・信光と共に信長にとって大きな脅威でした。
とはいえ、1553年(天文22年)の7月段階では、信行の家臣・柴田勝家が信長の敵対勢力・織田大和守家と戦っており、信長・信行の両者は協力して弾正忠家の運営にあたっていたと考えられています。
しかし、10月には信長の関与なしに独自で判物を発給しています。
信行は港町・熱田の豪商である加藤家のうち東加藤家にたびたび判物を発給しており、信長も西加藤家に判物を発給していたことから、熱田を巡って両者が争っていたと考えられています
1554年(天文24年)4月頃、守護代・織田大和守家は信長と信光によって滅ぼされます。
しかし、その信光も同年10月に暗殺され弾正忠家の争いから脱落しました。
信長との対決へ
この頃信行は、達成と改名しています。この「達」と言う字は織田大和守家の諱(いみな 名前)の一部であり、信行もそれを意識して、滅亡した守護代の大和守家の役割を表明したという見方もあります。
また、同じ頃に官途名(かんとめい)の「弾正忠」を名乗っており、自分こそが弾正忠家の当主であるという立場をとったと考えられています。
対して、信長は尾張守護の子・斯波義銀(しば よしかね)を擁立しており、信行は信長との対決の道を選びます。
1555年(弘治元年)6月、信行の弟・秀孝(ひでたか)が叔父・信次(のぶつぐ)の家臣に誤殺されるという事件が起こります。
それを聞いた信行は信次の居城・守山城の城下を焼き払わせます。
これに対し信長は、信次を処罰しようとせず、ここでも対応が分かれています。
信次は逐電していた為、信行の兄弟の織田安房守(おだ あわのかみ)が守山城主となります。
安房守は信長方だったと考えられていますが、翌年の6月頃横死してしまいます。
安房守を死に追いやったのが、信次の家臣だった角田新五(つのだ しんご)と言う人物ですが、全く処罰を受けることなく、後の稲生の戦いで信行側について戦っているので、信行が安房守謀殺に関与した可能性が指摘されています。
1556年(弘治2年)4月、信長の岳父(妻の父)で支援者であった美濃国の大名・斎藤道三(さいとう どうさん)が息子の義龍(よしたつ)との戦いで敗死します(長良川の戦い)。
義龍はもう1方の守護代だった、織田伊勢守ら信長の敵対者の支援に動き、信長は苦境に立たされます。
同じ頃、信行派の林美作守(はやし みまさかのかみ)らによる信長暗殺未遂事件が起こります。
同年8月、信行は林秀貞(はやし ひでさだ)・林美作守・柴田勝家らと共に信長と敵対する旗幟を鮮明にします。
信行らは信長の直轄領である篠木三郷を押領(おうりょう 兵士の統率・監督を行うこと)しようとします。
これに対し、信長は名塚砦を築き、自派の佐久間大学を入れ牽制します。
信行方の柴田勝家らは、名塚砦の攻撃に打って出て、信長がこれを迎え撃ったので、8月24日に両者は稲生で激突します。
その結果、柴田勝家は敗走し、林美作守は討たれ、信行方は敗北を喫します。(稲生の戦い)
敗れた信行は末森城に籠城し、信長は末森城に攻め寄せますが、母・土田御前のとりなしにより、信行は林秀貞・柴田勝家らと共に赦免されます。(この頃の信長には鬼のようなイメージがないですね)
信行の最後
稲生の戦い以降、信行が「弾正忠」を名乗ることはなくなりました。
信行の勢威は大きく後退し、「武蔵守信成」と改名しています。
しかし、信長に対する敵意は持ち続けます。
1557年(弘治3年)4月、斎藤義龍は信行に書状を送っており、信行に再度の決起を促す意図のものだった可能性があります。
また、信行自身も独自の判物発給を継続して行っていました。
1558年(永禄元年)3月、竜泉寺城の築城を始めますが、信長にとって信行が敵対勢力と提携する可能性を無視できないものとなります。
同年、「信長公記」によると、信行は岩倉城の織田信安(おだ のぶやす)に通じ、謀反を企てます。
再び、信行は篠木三郷を押領しようとしますが、この時は柴田勝家が密告します。
「信長公記」によると、信行が若衆の津々木蔵人(つづき くらんど)という武将を重用し、勝家を蔑ろにしたためという事です。(勝家の嫉妬?)
信長は仮病を装い、11月2日に信行は信長の見舞いで清須城を訪れますが、却って謀殺されてしまいます。
信行と言う家中最大の脅威を取り除いた信長の勢力は、飛躍的に拡大します。
信行殺害の数か月後には、岩倉織田氏の打倒に成功します。
この時すでに尾張守護の斯波義銀も追放されており、尾張の守護・守護代体制は解体され、信長が尾張の大半を支配するようになりました。
信行の子の坊丸(後の津田信澄 つだ のぶずみ)は助命され、長じて信長の有力武将として活躍しますが、明智光秀(あけち みつひで)が起こした本能寺の変で信長の三男・信孝(のぶたか)によって殺害されました(明智光秀の娘婿だったため)。
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