こんにちは スマイリーです。
訪問いただき、ありがとうございます。
ランキングに参加しています。ポチっとご協力をお願いします。
↓ ↓ ↓
日本史ランキング
今日は何の日?
1205年(元久2年)6月22日、畠山重忠の乱。 北条義時により討たれる。
実はこの戦い、乱と呼ばれていますが、別に畠山重忠(はたけやま しげただ)が反乱を起こしたわけではありません。
よくある讒言(ざんげん 告口)により、謀反人扱いされ、滅ぼされてしまいました。
畠山重忠とは
畠山氏は桓武天皇系の流れの持つ秩父氏の一族です。(平姓秩父氏)
武蔵国男衾郡畠山(現在の埼玉県深谷市)領地をもっており、元は源氏の家来でした。
しかし、平治の乱で源義朝(みなもとの よしとも)が敗死し、天下が平氏のものとなると、父・重能(しげよし)は平氏に従います。
義朝の子・頼朝(よりとも)が平氏打倒の兵を挙げると、重忠は一度は頼朝討伐に向かい戦いますが、後に一族と共に頼朝に臣従しました。
頼朝には信頼があり死後、子孫の守護の遺言を受けるほどの鎌倉幕府の有力御家人となっています。
些細なきっかけ
1204年(元久元年)11月4日、3代将軍・源実朝(みなもとの さねとも 頼朝の子)が妻を迎えることとなり、その酒宴が京都の平賀朝雅(ひらが ともまさ)邸で行われます。
その時の席で、重忠の子・重保(しげやす)と朝雅との間で言い争いが起こりました。
周囲の取り成しで収まりますが、これが火種となります。
平賀朝雅とは
平賀姓を名乗っていますが、実は源氏の一門です。
先祖は、源義家(みなもとの よしいえ)の弟・義光(よしみつ)であり、父の平賀義信(ひらが よしのぶ)は頼朝に重用されていました。
朝雅はその次男です。
朝雅は畠山氏の本領のある武蔵国の国司を努めており、それ以上に北条氏との姻戚関係が深かったという事です。
朝雅は後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の信任が厚く、威光を笠に着ており、また舅の時政を後ろ盾に権勢を強めていました。
重忠、朝雅、北条氏との関係
北条氏当主の時政(ときまさ)には、名前が分かっているだけで、3人の妻がいました。(名前不詳の妻まで挙げると、それ以上)
重忠と朝雅は、共に時政の娘を妻としており、朝雅の妻は、今回の事件に強く関わる牧の方(まきのかた)の娘です。
そして、重忠を討つ北条義時(ほうじょう よしとき)は重忠と義兄弟の関係です。
畠山重忠滅亡
時政と牧の方の間には、政範(まさのり)という唯一の男子がおりましたが、11月5日に病気で急死しており、その埋葬の報告が言い争い事件と一緒に鎌倉へ届きます。
1205年(元久2年)4月11日に、鎌倉で不穏ありと御家人たちが集まり始め、武蔵国で隠居していた稲毛重成(いなげ しげなり)が舅の時政に呼ばれます。(重成は重忠と従兄弟)
ただし、この時は何も起こらず、大半の御家人が5月3日に帰国します。
6月21日、婿の朝雅が、「重保に悪口を言われた」と牧の方に告口した為、牧の方は時政に「重忠・重保父子に謀反の疑いがある」と時政に訴えました。
時政は、息子の義時に重忠討伐を相談すると反対されますが、義時に強く迫り討伐を同意させます。
翌22日に鎌倉で大騒ぎになり、謀反人を討伐するよう由比ヶ浜に軍勢が集まります。
稲毛重成に招かれて鎌倉にいた重保も、3人の家来を従え由比ヶ浜に駆けつけますが、時政の意を受けた軍に取り囲まれます。
初めて自身が謀反人と気づいた重保は戦いますが、家来共々殺害されてしまいました。
一方、鎌倉で騒ぎがあると聞いていた重忠は6月19日に本拠地を出発しており、時政の命令で鎌倉に向かっている重忠を征伐する大軍と22日の午後に二俣川で遭遇します。
しかし、重忠の軍は弟たちが不在で、一族も次男の重秀(しげひで)しかおらず、率いる兵も130~140騎に過ぎませんでした。
重保が殺害されたことと、自身に追討軍が差し向けられたことを知った重忠は、潔く迎え撃つことを決断します。
義時の大軍と少数の兵で4時間の応戦を繰り広げた重忠でしたが、最後は命を落とします。享年42
重忠の死を知った重秀も自害しました。享年23
23日、鎌倉に引き上げた義時は、時政に合戦の様子を報告し、重忠が無実であったことを述べます。(こんな少数で反乱を起こすはずありませんからね)
関係者のその後
結局、重忠を陥れた首謀者として、稲毛重成父子、榛谷重朝(はんがや しげとも)父子が殺害されました。(榛谷重朝は重成の弟)
また、時政も失脚し、牧の方と共に義時・政子(まさこ)姉弟に鎌倉を追放されます。(牧氏事件)
さらに讒言の張本人・平賀朝雅は義時の命令により京都で殺害されました。
畠山氏の所領は乱で勲功のあった武士に分け与えられますが、残りは重忠の妻に安堵され、重忠の妻は足利義純(あしかが よしずみ)の妻となることで義純が畠山氏の名跡を継ぎます。(源姓畠山氏)
重忠の末子で出家していた重慶(ちょうけい)も、乱の8年後の1212年(建保元年)9月、謀反の嫌疑を受け殺害されています。
これにより重忠の血筋は断絶しました。
義時は武蔵国の有力者であった秩父氏一族を一掃することで、武蔵国を掌握することが出来ました。
以後の武蔵国は北条得宗家(北条氏の惣領)の支配となります。
|
スマイリー
最新記事 by スマイリー (全て見る)
- 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のタイトルについて考える - 2022年2月13日
- 浅井氏3代の居城・小谷城、織田信長の攻撃の前に落城する - 2021年9月1日
- 明治新政府に抵抗した会津藩の少年たちの悲劇~白虎隊士中二番隊~ - 2021年8月24日
コメント