将軍の権威回復を目指し、何度も三好氏と対決した13代将軍・足利義輝、遂に斃れる。

今日は何の日?
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今日は何の日?

1565年(永禄8年)5月19日は足利義輝の命日です。

 

 

出生

足利義輝(あしかが よしてる)は第12代将軍・足利義晴(あしかが よしはる)の嫡男として、1536年(天文5年)3月10日東山南禅寺で生まれています。

母は御台所(みだいどころ 正室)慶寿院(けいじゅいん)

兄弟に義昭(よしあき)周暠(しゅうこう)がいます。

幼名の菊幢丸(きくどうまる)から義藤(よしふじ)→義輝と改名しています。

これまでの将軍の長男は政所(まんどころ)の伊勢氏の元で育てられるのが慣例となっていましたが、菊幢丸は両親の元で育てられていました。

この頃幕府では、父・義晴と管領(かんれい)細川晴元(ほそかわ はるもと)が対立しており、義晴は戦いの度に敗れ、近江(おうみのくに しがけん)坂本に逃れ、菊幢丸も従っています。

その後も父と共に、京都への復帰と坂本・朽木(くつき)への脱出を繰り返します。

1546年(天文15年)7月27日、菊幢丸は朝廷より義藤の名を与えられます。

また、11月19日には足利氏が代々任じられてきた左馬頭(さまのかみ)に任命されます。

12月19日には義藤の元服が行われ、近江の守護大名・六角定頼(ろっかく さだより)が烏帽子親となりました。

通常、将軍の烏帽子親は管領の役目でしたが、管領の細川晴元との対立があった影響でしょうか、六角定頼が管領代に任じられて行われています。

しかし、定頼も晴元の岳父(がくふ 妻の父)という関係。(驚)

名も元服時に変えるはずですが、先に朝廷から授かっていたのですね。

翌20日には将軍宣下の儀式があり、義藤は僅か11歳父より将軍職を譲られ13代将軍となりました。

これには義晴が健在なうちに、将軍職を譲り後見する考えがあったようです。

1547年(天文16年)正月26日には義藤は義晴と内裏に参内し、後奈良天皇(ごならてんのう)に拝謁します。

7月19日義藤は義晴と共に京を追われてますが、29日に晴元と和解すると京に戻っています。

この時、晴元にも将軍就任を承認されました。

三好長慶と抗争・和解を繰り返す

しかし、晴元の家臣で畿内に一大勢力を築きつつあった三好長慶(みよし ながよし)が晴元を裏切り、細川氏綱(ほそかわ うじつな)陣営に入ります。

1549年(天文18年)6月の江口の戦いで長慶に敗れた晴元により、義藤・義晴は京都から坂本に退避します。

1550年(天文19年)5月、父・義晴が亡くなると、父が建設中だった中尾城で三好軍と対峙します。(中尾城の戦い)

しかし戦況は好転せず、11月には城を焼き堅田に逃れます。

1551年(天文20年)には政所頭の伊勢貞孝(いせ さだたか)が義藤を強引に連れ戻し、三好方と和解させようとしますが失敗し、それを知った六角定頼の勧めで義藤は2月に朽木に移ります。

これに反発した貞孝は奉公衆(ほうこうしゅう 幕府直属の軍事力)進士賢光(しんじ かたみつ)らを連れ、京都に戻り三好方に離反します。

同年3月、貞孝の屋敷に長慶が呼ばれるとの情報を得た義藤は、賢光を伊勢邸に潜入させ、長慶の暗殺を謀りますが、失敗し賢光はその場で自害しました。

また、5月5日の長慶派の河内(かわちのくに 大阪府東部)守護代・遊佐長教(ゆさ ながのり)が暗殺された際も、義藤の仕業とみなされており、畿内には不穏な空気が流れます。

7月には晴元の家臣・三好政勝(みよし まさかつ)香西元成(こうざい もとなり)を主力とする幕府軍が京都奪回をはかり侵入しますが、長慶の家臣・松永久秀(まつなが ひさひで)とその弟の松永長頼(まつなが ながより)に敗れます(相国寺の戦い

1552年(天文21年)義藤は長慶と和解し、京都へ戻ります。

これは長慶と対立していた六角定頼が急死し、和解の空気が生まれたためです。

伊勢貞孝は赦されますが、細川晴元は京都を脱出します。

2月には御供衆(おともしゅう)として長慶が幕臣に列せられ、長慶の推す細川氏綱が細川氏嫡流の京兆家(けいちょうけ)、弟の細川藤賢(ほそかわ ふじかた)典厩家(てんきゅうけ)を相続することが認められます。

ところが、義藤の側近である上野信孝(うえの のぶたか)が台頭し、これに反発する幕臣との確執が強まります。

特に、この年の6月に義藤が伊勢貞孝らの反対を押し切って山名氏や赤松氏の守護職を奪い、尼子晴久(あまご はるひさ)を8か国守護に任じたことで幕府内に動揺が広がりました。

1553年(天文22年)閏1月、上野信孝など側近の奉公衆らが長慶排除のために細川晴元と通じ、2月には親長慶派の伊勢貞孝が信孝らの追放の諫言を行い、これに義晴・義藤に長年従って三好氏と戦ってきた大舘 晴光(おおだち はるみつ)朽木稙綱(くつき たねつな)が同調します。

3月には義藤自身は長慶との和議を破棄し、東山の麓に築いた霊山城に入城し晴元と協力して長慶との戦端を開きます。

義藤は晴元と長慶が芥川山城を包囲している最中に連合して入京を目論みますが、8月に幕府軍が籠城する霊山城が攻め落とされてしまいました。(東山霊山上の戦い)

敗れた義藤は、伯父である前関白の近衛 稙家(このえ たねいえ)を伴い、朽木元綱(くつき もとつな 植綱の孫)を頼り、朽木谷に逃れそこで5年間を過ごします。

長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義藤を見捨てて帰京してしまいました。

1554年(天文23年)2月12日、義藤は朽木谷に滞在中、従三位に昇進し、名を義輝に改名します。(ここからは義輝で書きます)

1558年(弘治4年)2月、朝廷は正親町天皇(おおぎまちてんのう)が即位し、年号を永禄に改元しますが、これは朝廷が長慶と相談し実施したもので、義輝には改元を知らされず、義輝は朝廷に抗議します。

同年(永禄元年)3月、改元の一件もあり、義輝は朽木谷で挙兵しました。

5月には六角義賢(ろっかく よしかた 定頼の子)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺います。

翌月、幕府軍は三好 長逸(みよし ながやす)の軍と交戦しました。(北白川の戦い)

一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢でしたが、長慶の弟・三好実休(みよし じっきゅう)の反撃を受け、また義賢の支援も打ち切られた為、戦況は思うように展開しませんでした。

11月、義輝は義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴い、5年ぶりの入洛が実現して御所での直接的な幕府政治を再開します。

この年の12月28日には、伯父の近衛稙家の娘を正室に迎えました。

長慶はさらに権勢を高め、幕府の御相伴衆にも加えられ、修理大夫への任官を推挙されますが、同時に義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることとなります。

ただし、長慶は長年義輝と対決したことから、義輝との和解は難しいと理解しており、1559年(永禄2年)12月に嫡男・孫次郎が義輝から名を一字拝領して義長(よしなが 後に義興)と名乗り、翌1560年(永禄3年)1月に義長が三好氏代々の官途であった筑前守に任命されると、長慶は三好氏の家督と本拠地の摂津国(せっつのくに 大阪府北中部・兵庫県南東部)の芥川山城を義興に譲り、自身は河内国飯盛山城に移っています。

なお、長慶が御相伴衆になると同時に、嫡男の義興と重臣の松永久秀が御供衆に任命されています。

義輝の政治活動

義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力して大名同士の抗争の調停を頻繁に行います。

また、義輝は諸大名への懐柔策として、大友義鎮(おおとも よししげ 後の宗麟)筑前(ちくぜんのくに 福岡県西部)・豊前(ぶぜんのくに 福岡県東部・大分県北部)の守護に、毛利隆元(もうり たかもと 元就の嫡男)安芸(あきのくに 広島県西部)の守護に任命し、三好長慶・義興父子と松永久秀には桐紋の使用を許します。

さらに自らの名の一字を家臣や全国の諸大名などに与えます。

例えば、「藤」の字を細川藤孝(ほそかわ ふじたか)筒井藤勝(つつい ふじかつ 後の順慶)らに、「輝」の字を毛利輝元(もうり てるもと)・伊達輝宗(だて てるむね)・上杉輝虎(うえすぎ てるとら 後の謙信)らに、足利将軍家の通字である「義」の字を朝倉義景(あさくら よしかげ)・島津義久(しまづ よしひさ)・武田義信(たけだ よしのぶ)といった具合です。

信濃国(しなののくに 長野県、岐阜県の一部)巡って甲斐(かいのくに 山梨県)武田信玄(たけだ しんげん)越後(えちごのくに 新潟県)長尾景虎(ながお かげとら 上杉輝虎)が川中島で争うと両者の間で調停を行い、信玄を信濃守護に任命します。

また、長尾景虎の関東管領就任の認可御相伴衆を拡充し、毛利元就(もうり もとなり)・毛利隆元・大友義鎮・斎藤義龍(さいとう よしたつ)今川氏真(いまがわ うじざね)・三好長慶・三好義興・武田信虎(たけだ のぶとら 信玄の父)を任命します。

義輝の帰京以降も三好氏の権勢は続きますが、それに反発する畠山高政(はたけやま たかまさ)と六角義賢が蜂起し、三好実休が戦死すると(久米田の戦い)三好氏に衰退の兆しが見え始めます。

また、1562年(永禄5年)に長慶と結んでいた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、政所執事に新しく摂津 晴門(せっつ はるかど)を任命します。

これに激怒した貞孝は反乱を起こしたが、9月に長慶の手で討たれました。

これにより、伊勢氏による政所支配は幕を閉じます

九州では1559年(永禄2年)に大友義鎮を九州探題に任命し、統治を委任します。

元々、九州探題は足利氏一門の渋川氏が世襲していましたが、少弐氏と大内氏の抗争により断絶しており、これを補う為のものでした。

この頃の大友氏は将軍家とは親しく、7ヶ国の守護を兼任していました。

1564年(永禄7年)7月に長慶が病死すると、義輝はこれを機に幕府権力を復活させようとします。

義輝の最期

しかし、傀儡の将軍を擁立したい松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政勝、岩成友通(いわなり ともみち)の3人)にとっては、将軍による直接統治を目指す義輝の存在は邪魔なものでした。

そこで、久秀の長男・松永久通(まつなが ひさみち)と三好三人衆は足利 義維(あしかが よしつな 義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・義栄(よしひで 義輝の従兄弟)新将軍にしようと朝廷に掛け合いますが、朝廷は耳を貸しませんでした。

1565年(永禄8年)5月19日、久通と三好三人衆は、主君・三好義継(みよし よしつぐ 長慶の養子)と共に約1万の兵で二条御所に押し寄せます。(永禄の変)

義輝は剣豪の塚原卜伝(つかはら ぼくでん)の弟子で剣の指導を受けたほどの腕前だったので、刀を抜き抵抗しますが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られてしまいます。

記録には殺害されたとも、自害したともありますが、辞世の句があるので、自害したのでしょうね。享年30

この時、進士晴舎(しんじ はるいえ)ら奉公衆や、摂津晴門の嫡子も一緒に討死もしくは自害します。

それだけでなく義輝の母・慶寿院や義輝の側室・小侍従(こじじゅう 進士晴舎の娘)までも殺害されました。

義輝の死は、三好氏に対して世間を憤慨させます。

(松永氏に対しても怒りの矛先が向かいますが、久秀は加わっていません。)

特に義輝と親しかった大名は怒りをあらわにし、朝廷も義輝の死に悼惜し、6月7日に義輝に従一位・左大臣を遺贈したばかりか、正親町天皇も政務を停止して弔意を示しました。

三好氏に対する怒りは支配層ばかりではなく、一般庶民にも広まり、1567年(永禄10年)の2月10には、京都の真正極楽寺で義輝の冥福を祈り、六斎念仏が行われ、貴賤問わず男女合わせて7~8万人の群衆が参加して義輝の死を惜しみました。

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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