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1584年3月22日 徳川家康が小牧山に急造の砦・土塁を完成 (小牧・長久手の戦い)
小牧・長久手の戦いと言っても、実は幅が広いんです。
直接は羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康連合軍の戦いなんですが、これに連動して全国各地で戦が起こっています。
それは、秀吉を支持しない大名が多かった為で、北条氏や長曾我部元親(ちょうそかべ もとちか)、佐々成政(さっさ なりまさ)、雑賀衆(さいがしゅう)・根来衆(ねごろしゅう)といった勢力が信雄・家康と同盟を結んでいた為です。
この戦が起こったのも、2年前の織田信長が明智光秀の襲われた本能寺の変が原因でしょう。
羽柴秀吉が明智光秀を山崎の合戦で討ち、清須会議という織田信長の後継者選びでも主導的な立場でリードし信長の嫡孫の三法師(さんぼうし)を後継者にたてます。
その時、信長の子である次男・信雄(のぶかつ)、三男・信孝(のぶたか)も候補にはなりますが、この二人は三法師の後見人となることで決定します。
しかし、織田家の筆頭重臣だった柴田勝家は信孝を支持し、秀吉に対抗しますが、天正11年4月(1583年)の賤ヶ岳の戦いで敗れ、勝家も信孝も滅亡します。
賤ヶ岳の戦いでは、信雄は秀吉方に属しています。(信孝への対抗の為)そして、信孝を切腹させたのは信雄とも言われてます。
この頃まで秀吉と協調的であった信雄も、秀吉によって安土城を退去させられたことから関係が悪化します。
更に徳川家康と同盟を結ぶと、天正12年(1585年)には自ら親秀吉派の3家老を処刑してしまい、激怒した秀吉は信雄に対する出兵を決断します。
戦の経過
天正12年3月13日、家康が清須城(愛知県清須市)に到着した日に織田家の譜代の家臣で織田軍に味方すると見られていた池田恒興(いけだ つねおき)が羽柴軍に味方し、犬山城(愛知県犬山市)を占拠します。
池田恒興像
これに対抗するため、家康は3月15日に小牧山城へ駆けつけます。
羽柴方の恒興と協同戦をする森長可(もりながよし)は16日に羽黒(愛知県犬山市)に着陣しますが、この動きを家康に知られ、奇襲を受けて敗退します。
森長可像
敵襲の心配がなくなった家康は小牧山城(愛知県小牧市)を占拠して、羽柴軍に対抗するための砦と土塁を築かせ22日に完成します。
秀吉は3月21日に大阪を出て、3月27日に犬山に着陣しますが、両軍が砦の修築や土塁の構築を行ったため、両軍ともに手が出せず、膠着状態になります。
4月4日に恒興が家康の本拠地である三河(愛知県)を襲うことを秀吉に献策します。一度は拒否されますが、4月5日に再度訪れ、秀吉の許可を得ます。
その時編成されたのが、総大将羽柴秀次(はしば ひでつぐ 秀吉の甥)・池田恒興・森長可・堀秀政(ほり ひでまさ)でした。
羽柴秀次像
堀秀政像 ひ、酷い (泣)
秀次と長可は恒興の娘達と結婚しており、それぞれ相婿の関係です。
羽黒での合戦の恥を注ぎたい長可と、手柄を立てたい秀次らでしたが、この動きも家康に知られてしまい、まず後方の秀次の部隊が奇襲されます。
秀次の部隊は壊滅してしまい、秀次自身も自分の馬を失って部下の馬で逃げるほどの失態でした。
次に秀政が狙われますが、秀次の敗走を知った秀政は何とか兵をまとめ、敵を返り討ちにします。
前線へ突出していた恒興と長可は家康の出現を聞き引き始めますが、家康が陣を構えたので対峙します。
長久手の古戦場
この時の兵力が家康軍9300人、一方恒興・長可軍が9000人。兵力的には互角で4月9日に一進一退の戦いが約2時間続きます。
しかし、まず長可が討たれると家康軍が優勢になり、恒興も態勢を立て直そうとするものの、討ち死にしてしまいます。
恒興の長男の元助(もとすけ)も倒れ、次男の輝政(てるまさ)だけが家臣に説得され、戦線を離脱します。
この合戦は家康の勝利の終わり、追撃した後、小幡城に引き上げました。
同じ4月9日には秀吉が陽動として小牧山城を攻撃します。午後になって、敗戦の報を聞いた秀吉は軍を率い急行しますが、家康の部下に妨害されます。
家康が小幡城にいると聞いた秀吉は、翌日攻撃しようと決めますが、家康と信雄は夜間に小幡城を出ており、秀吉も引き上げました。
他方面での戦い
北関東では家康方の北条氏と秀吉方の大名が下野国(栃木市)で争っています。(沼尻の合戦)
この戦で秀吉方は8000丁の鉄砲を集めますが、勝負がつきませんでした。
和泉国(大阪府)では秀吉方の岸和田城が根来・雑賀衆によって秀吉留守の間に攻撃されますが、何とか守り切っています。しかし、秀吉も大阪城に戻らないといけない状態になります。(岸和田城合戦)
四国では家康方の長曾我部元親が十河存保(そごう まさやす)の十河城を落とし、讃岐(香川県)の平定に成功します。(第二次十河城の戦い)
9月9日には家康の動きに呼応し、佐々成政が能登国末森城(石川県)を攻略し、落城寸前となりますが、前田利家の反撃により退却します。(末森城の戦い)
信雄の裏切り
織田信雄像
秀吉は合戦から半年以上たった11月12日に信雄へ単独講和を持ち掛け、信雄は応諾します。
信雄の講和によって大義名分がなくなった家康は11月17日に三河へ帰還します。
秀吉は家康にも講和を持ち掛け、家康は返礼として次男の結城秀康(ゆうき ひでやす)を秀吉の養子とするため大阪に送っています。
こうして信雄・家康と講和を成立させたため、秀吉包囲網は瓦解し、長曾我部元親や雑賀・根来衆は孤立してしまいます。
この後、長曾我部元親を征伐する四国攻めと雑賀・根来衆を征伐する紀州攻めが行われることとなります。
また、佐々成政も家康の支援を受けれず秀吉に降伏します。
戦術的には信雄・家康の勝利でしたが、戦略的には秀吉が勝ち、秀吉の天下が近づいていきます。
スマイリー
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