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4月9日の「今日は何の日?」
1180年 後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨(命令)を発する
平安時代に以仁王がが挙兵した事件は有名ですね。
平安時代後期、平氏の時代でした。
平清盛が保元の乱(ほげんのらん)、平治の乱(へいじのらん)で戦に勝利し、武士でライバルの源氏が没落した為、仁安2年(1167年)には遂に太政大臣(だじょうだいじん)まで登りつめます。
承安元年(1171年)には、清盛は自分の娘・徳子を高倉天皇に入内(后となるために内裏に入ること)させます。
その頃には、平氏一門で10数名の公卿(くぎょう)と30数名殿上人(てんじょうびと)を占め、「平家物語」で「平氏でない者は人ではない」と言われるまでになります。
太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議+従3位以上の非参議。
しかし、一方では、嘉応2年(1170年)に摂政・藤原基房(ふじわらの もとふさ)と平重盛(たいらの しげもり)との間で殿下乗合事件が起き、また治承元年(1177年)には鹿ケ谷の陰謀が起こり後白河法皇の近臣が多数処罰されています。
また、治承3年(1179年)11月清盛はクーデターを起こし、法皇を鳥羽殿に幽閉したり、関白を解任・配流し法皇の近臣39名が解任されます。(治承3年の政変)
治承2年11月、高倉天皇の中宮となった徳子が皇子を産むと皇太子とし、治承4年(1180年)2月には、高倉天皇が皇太子に譲位して安徳天皇となります。
しかし、安徳天皇はわずか3才であり、この時にも園城寺の僧達が延暦寺や興福寺に呼びかけ、後白河法皇・高倉上皇を誘拐し、法皇や前関白の解放・平氏討伐命令を要求しようと計画します。
この計画は漏れてしまい失敗しますが、後白河法皇は鳥羽院から移され、幽閉生活から解放されます。
以仁王の不満
まず、以仁王がどんな立場の人だったのか?
以仁王は後白河法皇の第3皇子であり、高倉天皇の兄にあたります。
以仁王 像
母方の実家が藤原氏で家柄も良かったので、天皇候補の有力な一人でした。
しかし、異母弟・高倉天皇の生母は権力を誇っていた皇太后・平慈子(たいらの しげこ)であり、妨害され阻止されています。
特に仁安元年(1166年)に母方の伯父が失脚すると、皇位継承可能性がなくなり、30歳近くになっても親王宣下(しんのうせんげ)も受けれませんでした。
(確かに後白河天皇の皇子で〇〇親王と名乗れてないのは、僧になった者を除くと以仁王だけですね。)
更に、清盛が起こした治承3年のクーデターで経済基盤である荘園も一部没収されており、安徳天皇が即位した事で皇位継承の望みもなくなります。
こんな不遇の皇子に手を貸したのが源頼政(みなもとの よりまさ)です。
源頼政とは
長治元年(1104年)-治承4年5月26日(1180年6月20日)
清和源氏出身の源仲政(みなもとの なかまさ)の長男。
源頼政 像
地盤が摂津の国にあったので、摂津源氏とよばれます。
(因みに鎌倉幕府を開いた源頼朝の系統は河内の国に地盤があり、河内源氏と呼ばれてますが、途中から分かれてますね。)
この頼政、武将としてだけではなく、勅撰和歌集に59首入首するほど歌人としても有名です。
武将としては、「平家物語」に頼政が鵺(ぬえ)と言う怪物を退治した話が記されています。
鵺とは頭が猿・胴がタヌキ・手足が虎・尾が蛇という怪物だったそうですが、そんな生き物いないでしょ(笑)
それでも、弓矢で射た話は頼政の武勇が高かった証明だと思います。
平治の乱では、源頼朝の父義朝(よしとも)には味方せず、清盛側について戦っています。
この為、源氏としてはほぼ壊滅状態になりましたが、唯一、源氏としては最高位の従三位に就くことができました。この時74歳。
しかも、従三位に推薦したのが清盛で、頼政の詠んだ歌がきっかけだったとか。
それだけ清盛には信頼されていたということですね。
源氏を大切にする頼政
久寿2年(1155年)源義朝の長男・義平(よしひら)が叔父の義賢(よしかた)を討つ事件があり、義賢の長男・仲家(なかいえ)を保護し、養子としています。
保元2年(1157年)には弟の頼行(よりゆき)が突然罪を受け、流罪となり自害すると、その子供達も引き取り養子としています。
こんなに源氏を大事にする人だったからか、この平氏に不満が高まっている時に源氏を再興したかったんですかね。
以仁王挙兵
こうして治承4年(1180年)4月9日、頼政と謀った以仁王は自身を「最勝親王」と称し、諸国の源氏と大寺院へ平氏追討の命令を出します。
この使者には以仁王と近い関係のあった源行家(みなもとの ゆきいえ)を起用し、諸国へ送り出しますが、途中でばれてしまい熊野別当湛増(くまののべっとう たんぞう)と言う人物に密告されます。
5月15日には、以仁王は平氏によって臣籍降下され、「源以光」とされ土佐の国への配流が決定します。
そして、以仁王の館を襲撃しますが、この時には園城寺へ逃れており、平氏は園城寺へ以仁王の引き渡しを求め、以仁王も延暦寺へ協力を求めます。
この時点の大将には頼政も入っていましたが、21日夜のうちに子息を率い50騎で園城寺へ入り、以仁王と合流します。
しかし、園城寺と対立していた延暦寺が味方にならず、園城寺内でも親平氏派がいた為、勝ち目が薄いと判断した以仁王と頼政は南都の寺社勢力を頼り興福寺へ向かいます。
夜間の行軍の疲れで何度も落馬した以仁王は、宇治の平等院で休息をとるため宇治橋を落とし、宇治川で平氏軍と対峙します。
平家物語では以仁王が側1000騎、平氏側28000騎とありますが、誇張にしても相当な戦力差があったでしょう。
頼政は以仁王を逃そうと防戦しますが、頼政の子供達も討たれたり、自害してどんどんと見方が減っていきます。
そして、頼政自身も平等院で自害します。(77歳)
頼政自害の地と伝わる平等院境内 「扇ノ芝」
この時、養子となっていた仲家も嫡男の仲光(なかみつ)と共に戦死しています。養親の頼政に最後まで従ったんですね。
以仁王は何とか平等院を脱出しますが、追手に追いつかれ、敵の矢に当たって討ち取られてしまいます。
戦後
乱は失敗しますが、以仁王の顔を知る者がなく、しばらくは生前説も流れており、令旨自体が源頼朝らに届いた為、諸国の源氏が立ち上がり治承・寿永の乱の幕が上がります。
こうして平氏滅亡のきっかけを作った以仁王ではありますが、令旨の内容に高倉天皇や安徳天皇に代わって即位をほのめかす文章が含まれていたことに朝廷は反発し、乱から16年も経った1196年になっても以仁王は謀反人の扱いでした。
以仁王の第1皇子の北陸宮は源義仲(みなもとの よしなか)によって旗頭に担がれ、安徳天皇に替え皇位に就けようと画策しますが、以仁王が親王を称していたことを後白河法皇に不快に思われていた為、退けられています。
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