北条氏を大きくするも子孫の評価が低い、鎌倉幕府初代執権・北条時政

今日は何の日?
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今日は何の日?

1215年1月6日 北条時政の命日です。

北条時政(ほうじょう ときまさ)鎌倉幕府の初代執権です。

源頼朝(みなもとの よりとも)の妻、北条政子(ほうじょう まさこ)の父と言った方が分かりやすいかもしれないですね。

北条氏は時政の時代になって力をつけるまでは、伊豆国(いずのくに 静岡県)の小さな豪族でした。

桓武平氏の流れの子孫を自称していますが、はっきりしていません。

平治の乱源義朝(みなもとの よしとも)が負け、その子である頼朝が伊豆に流された為、監視役となっていました。

しかし、娘、政子が頼朝と恋仲になり、初めのうちは反対していたものの、婚姻を認めることとなった為、頼朝の後援者となります。

挙兵

治承4年(1180年4月27日)に平家打倒を促す以仁王(もちひとおう 後白河法皇の皇子)の令旨(りょうじ 命令書)が頼朝に届くと、頼朝はしばらく静観をします。

しかし、以仁王に加勢した伊豆国主の源頼政(みなもとの よりまさ)が敗死すると、国主が平時忠(たいらの ときただ)へと交代すると、伊豆の国衙(こくが 役所)の実権を伊東氏が掌握し、工藤氏や北条氏が圧迫されます。

また、流刑者として伊豆にいた時忠の元側近の山木兼隆(やまき かねたか)が伊豆の目代(もくだい 役人)となります。

さらに伊豆にいた頼政の孫・有綱(ありつな)を追捕するために大庭景親(おおば かげちか)が派遣されると、東国に平氏の力が及んできます。

これを自分の危機と悟った頼朝は挙兵することを決意し、義朝の時代から縁故のあった豪族たちに強力を呼びかけます。

時政は頼朝と挙兵の計画を練り、まず、目標を山木兼隆に定めます。

8月17日に頼朝軍は山木兼隆の本拠を襲い、撃ち取りに成功します。

その後、頼朝軍は有力豪族の三浦氏との合流を図り、伊豆を出て、土井実平(どい さねひら)の所領のある相模国(さがみのくに 神奈川県)土肥郡まで進出します。

その際、時政らも一緒に従っています。

しかし、その前に大庭景親の軍勢が立ちはだかり頼朝軍は大敗を喫します。(石橋山の戦い)

敗れた頼朝軍は四散して、時政は息子・義時(よしとき)と共に甲斐国(かいのくに 山梨県)へ逃れ、甲斐源氏の武田氏と合流します。

この時、時政の長男の宗時(むねとき)は大庭方の伊藤祐親(いとう すけちか)の軍勢に囲まれ討ち死にしています。

頼朝・実平らは安房国(あわのくに 千葉県南部)へ脱出しました。

武田氏と合流した時政らはその後、駿河(するが 静岡県)へと侵攻し、房総半島・武蔵(むさし 東京都・神奈川県)を制圧した頼朝も木瀬川に到達し、頼朝軍の大軍を見た平氏軍は富士川の戦いで敗走します。

亀の前事件

頼朝には亀の前という愛妾がおり、家来の屋敷に匿って寵愛していました。

寿永元年(1182年)嫡男の頼家(よりいえ)を出産した政子に継母の牧の方(時政の妻)がこの事を知らせてしまいます。

激怒した政子は牧宗親(まき むねちか 牧の方の父)に命じて、匿っていた家臣の屋敷を壊させます。

これに怒った頼朝は宗親を呼び出し、叱責して髷(まげ)を切ってしまいました。

夫婦のトラブルに巻き込まれた宗親や匿っていた家来はたまったもんじゃありませんね。

しかし、宗親や時政の舅であり、この仕打ちに怒った時政は一族を連れ、伊豆に立ち退く騒動になっています。

この騒動の顛末はどうなったのか分かっていません。

富士の巻狩りと曽我兄弟の仇討ち

建久4年(1193年)3月、後白河法皇(ごしらかわほうおう)の崩御から1年が過ぎ殺生の禁断が解けると、頼朝は大規模な巻狩りを富士で催します。

ところが5月28日の夜、曽我祐成(そが すけなり)時致(ときむね)兄弟が父の仇である工藤祐経(くどう すけつね)の寝所を襲い、討ち取るという事件が発生します。

兄の祐成はすぐ討ち取られましたが、弟の時致は頼朝の寝所に突進し捕まってしまいます。

時致の烏帽子親(えぼしおや)が時政であった為、黒幕が時政ではないかと疑われています。

実際、伊豆の有力者だった祐経がいなくなったおかげで、時政は伊豆に力を持つこととなり、その後、駿河・遠江(とおとうみ いずれも静岡県)にまで足場を築いた時政は正治元年(1199年)に頼朝が亡くなると13人の合議制に名を連ね、幕府の有力者となっていきます。

政権争い

頼朝の死後は嫡子の頼家が継ぎますが、頼朝在世中に押さえられていた有力御家人たちの不満が噴出します。

まず、御家人の統制に辣腕をふるっていた侍所別当(長官)・梶原景時(かじわらの かげとき)が弾劾を受けて、鎌倉を追放され滅ぼされます。(梶原景時の変)

この時弾劾のきっかけを作ったのが、時政の娘・阿波の局(あわのつぼね)であり、時政の関与が疑われています。

そしてこの後、時政は源氏以外の御家人で初めて遠江の国司となっています。

時政の力は強まりましたが、将軍家外戚の地位は北条氏から頼家の乳母父で舅の比企能員(ひき よりかず)に移ってしまい、北条氏と比企氏は対立します。

建仁3年(1203年)7月に頼家が病で倒れると、9月2日、時政は能員を自邸に呼び能員を謀殺し、頼家の嫡子・一幡(いちまん)のいる小御所に軍勢を差し向け比企氏を滅亡させます。

そして頼家を将軍位から廃して、伊豆修禅寺に追放しました。(比企能員の変)

時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた実朝(さねとも)を3代将軍に擁立し、自邸に迎えて実権を握ります。

10月9日には大江広元(おおえ ひろもと)と並び政所の別当に就任します。

建仁3年(1203年)には初代執権につき、この頃には大豪族の三浦氏や畠山氏に対抗できるだけの軍事力を持つようになっていました。

11月には比企能員の変において逃げ延びた一幡が捕らえられ、時政の子・義時の手勢に殺されます。

時政が政所別当に就任した同日、時政と牧の方との間に生まれた長女の婿で武蔵守である平賀朝雅(ひらが ともまさ)が京都守護の職務の為、鎌倉を離れることとなり、武蔵国の国務を岳父の時政が代行することとなります。

そして、元久元年(1204年)3月6日には義時が相模守に任じられると、父子で幕府の中枢である武蔵・相模の国務を掌握します。

同年7月18日、前将軍・頼家が伊豆国修禅寺で死去しますが、「愚管抄」「増鏡」によると、頼家は義時の送った軍勢により、入浴中に殺されたことになっています。

実朝が坊門信子(ぼうもん のぶこ)を正室として迎える使者として時政の嫡子・政範(まさのり)が派遣されますが、11月5日、京で病により16歳で急死します。

時政と牧の方の唯一の男子であった政範の死が、畠山重忠の乱・牧氏事件へ続く一族の内紛につながっていきます。

時政失脚

時政による武蔵支配の強化は、武蔵国留守所惣検校職として国内武士団を統率する立場にあった畠山重忠(はたけやま しげただ)との軋轢を生むことになります。

重忠は時政の娘婿でしたが、元久2年(1205年)6月、時政は時政は同じく娘婿である平賀朝雅・稲毛重成(いなげ しげなり)の讒訴(ざんそ)を受け、畠山重忠を滅ぼします。(畠山重忠の乱)

特に重忠は稲毛重成とは従兄弟でもあります。

次に、時政は牧の方と共謀し将軍の実朝を殺害し、平賀朝雅を将軍に担ぎ上げようとします。

元々、朝雅は平賀姓を名乗っていますが、源義家(みなもとの よしいえ)の弟・義光(よしみつ)の子孫であり源氏の一門でした。

そのため将軍になれる立場にはあったようです。

しかし、政子や義時が時政邸にいる実朝を義時邸に迎えさせ、時政側についていた多くの御家人も義時側に味方し、この陰謀は失敗します。

畠山重忠の殺害に関して反対の立場だった義時とは対立を深めており、幕府内で孤立無援になった時政は同日に出家し、翌日には鎌倉を追放され伊豆へ隠居させられます。

以後は政治の表舞台に立つことなく、建保3年(1215年)1月6日伊豆の北条の地で死去します。
享年78

                  北条時政の墓 願成就院

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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