また北条氏の大敵の1人・和田義盛が消える 和田合戦

今日は何の日?

こんばんは スマイリーです。

ご訪問頂き、ありがとうございます。

ランキングに参加しています。ポチっとご協力をお願いします。
↓ ↓ ↓

日本史ランキング

随分、間隔があいてしまった「今日は何の日?」

1213年5月2日和田義盛が北条義時を討つために鎌倉を攻撃する。(和田合戦)

 

和田義盛(わだ よしもり)

                  和田義盛

久安3年(1147年)ー建暦3年5月3日(1213年5月24日)

元々和田義盛は相模国(さがみのくに)に勢力を持っていた三浦氏の一族です。

「和田」という地に領地を持っていた為、和田を姓としています。

義盛は源頼朝(みなもとの よりとも)が平氏打倒の挙兵をした時から、三浦氏と共に頼朝の味方として平氏と戦いました。

その為、頼朝の信頼も厚く、侍所の別当(鎌倉幕府で軍事・警察を担った組織の長官になっています。

平氏が滅亡した後、頼朝が弟の義経(よしつね)と対立し、義経は奥州の藤原氏の元へ逃げ込みますが、藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)の後を継いだ泰衡(やすひら)が義経を殺したのをきっかけに奥州征伐が始まり、手柄を立てています。

そして、建久10年(1199年)頼朝が亡くなり頼家(よりいえ)が2代将軍となると、若い頼家を補佐する13人の合議制として加わっています。

御家人同士の争い

しかし、この頃から多くの有力御家人が討伐されるようになります。

まず、建久10年10月、梶原景時(かじわら かげとき)が結城朝光(ゆうき ともみつ)を讒言したのをきっかけに御家人たちの反感を買い、正治2年(1200年)正月、景時は滅ぼされます(梶原景時の変)。

建仁3年(1203年)には北条氏と比企氏の間で抗争が発生します。

北条氏は頼朝の妻の政子の実家であり、比企氏は頼家の愛妾の実家で、嫡男の一幡を産んでおり、先代と2代将軍の親戚の争いになります。

この時、北条氏は頼家が病気で危篤状態だったのを機に比企氏を滅ぼします(比企能員の変)

病気が回復し、事態を知った頼家は激怒し、北条氏討伐を命じますが、逆に将軍職を追われ、出家させられて修善寺へ追放されます。

頼家に変わって、実朝(さねとも)が将軍に就任し、北条時政(ほうじょう ときまさ)が初代執権に就任します。

元久2年(1205年)6月には時政の策謀で畠山重忠(はたけやま しげただ)に謀反の疑いがかけられ、滅ぼされます。(畠山重忠の乱)

義盛は全ての事件に関わり北条氏に味方することで、他氏が没落する中で生き残ってきました。

初代執権の時政も実朝を廃立しようとして、子の政子・義時(よしとき)と対立し、失脚します(牧氏事件)。

代わって義時が2代執権に就任しました。

北条義時の挑発

建暦3年(1213年)泉親衛(いずみ ちかひら)が頼家の遺児を将軍に擁立して、北条氏を打倒しようとする陰謀が発覚します。(泉親衛の乱)

この時、義盛は鎌倉を留守にしていましたが、この事件に関与したとして逮捕されたのが義盛の2人の子と甥です。

鎌倉に戻った義盛は一族を引き連れ、息子と甥の赦免を嘆願します。

2人の息子は許されますが、甥は事件の張本人として許されず、和田一族の前で縛られた甥を預かり人に引き渡したことが和田氏には屈辱となりました。そして甥は陸奥の国へ流罪と決まります。

鎌倉にあった甥の屋敷はそれまでの慣例で、和田氏に引き渡され、和田氏の代官が管理しましたが、突然義時が泉親衛の乱で功績のあった者に与えると決めて代官を追い出してしまいます。

こういった重ね重ねの挑発にのり、義盛は遂に挙兵を決断します。

この挙兵に将軍実朝の近臣だった孫の朝盛(とももり)は反対し、出家して京都に出奔しようとしますが、それを知った義盛は秘密がばれると激怒し、息子に後を追わせ引き戻します。

この騒ぎに鎌倉は騒然となり、事態を憂慮した実朝が使者を義盛の屋敷に送り、真意を問いただします。

この挙兵には、義盛は和田氏の他に、縁戚の横山氏・波多野氏・本家筋の三浦義村(みうら よしむら)を仲間としており、義村は起請文まで書いています。

起請文(きしょうもん)・・・人が約束を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書。

5月2日に義盛の隣家から義盛の館に軍兵が集まっているという通報が幕府へ入ります。

そして、仲間のはずの三浦義村からも義時へ義盛の挙兵の報告が入ります。義村は弟と相談して裏切ってしまったのです。

申の刻(16時)に義盛ら和田一族は決起し、将軍御所・義時邸・大江広元(おおえ ひろもと)邸を襲撃します。

和田勢は日暮れまで戦いますが、幕府方に新手が次々に加わり、疲弊した和田勢は由比ガ浜へ退却します。

それでも、翌3日寅の刻(4時)に横山氏の応援が到着し、勢力を盛り返します。

辰の刻(8時)には相模・伊豆の御家人たちが稲村ケ崎に集まった為、幕府軍は敵・味方か分からず狼狽しますが、大江広元が将軍実朝の名で御教書を作成させ、使者を送り浜辺の軍兵に示させたので、一斉に幕府方につきます。

御教書(みぎょうしょ)・・・鎌倉・室町幕府の執権・管領が将軍の意を奉じて出した文書。

巳の刻(10時)には、和田・横山勢が再び鎌倉に突入し、激戦が繰り広げられます。しかし、次第に疲弊していき、数を減らします。

酉の刻(18時)には義盛の愛息が討ち取られ、悲嘆した義盛は「今は戦う甲斐なし」と大泣きし、討取られます。

                   鎌倉市の和田塚
他の息子たちも討取られますが、孫の朝盛は生き延び、京都へ逃れます。

和田・三浦氏のその後

一族を失った朝盛は、その後の承久の変で後鳥羽上皇方について幕府軍と戦っています。

やはり、一族を討った北条氏とは共に戦えなかったのでしょう。
しかし、朝盛の子は幕府軍に加わり、親子で敵味方に分かれています。

一方、裏切った三浦義村ですが、息子の泰村(やすむら)の代に三浦氏は北条氏に滅ぼされてしまいます。(宝治合戦)

 

The following two tabs change content below.

スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) どうしても自由になりたいと思い、インターネットビジネスに興味を持ち、始めました。 歴史好きなので、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
広告

コメント

タイトルとURLをコピーしました