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今日は何の日?
969年(安和2年)3月25日
源満仲の密告により、源高明が皇太子・守平親王廃立陰謀のかどで太宰権帥に左遷される
また密告、しかも太宰権帥への左遷。
大宰府は政争に負けた上級貴族の来る場所になってますね。
華やかな平安時代の裏では自己保身と権力闘争ばかりですね。
当事者の源高明(みなもとの たかあきら)って?
源高明
延喜14年(914年)-天元5年12月26日(983年1月17日)
醍醐天皇(だいごてんのう)の第10皇子(12皇子と書かれてるものもあり)で最終的に左大臣であったので、西宮左大臣と呼ばれています。
延喜の治(えんぎのち)と言う政治で有名な醍醐天皇ですが、20人近い奥さんと36人の子女がいますから多すぎです。
源高明はそのうちの側室を母に持っています。
これだけ親王がいて、上に兄弟がいると、天皇になる可能性は低いですね。
延喜20年(920年)7歳で臣籍降下(しんせきこうか、皇族の身分を離れる事)で源の姓を与えられています。
学問にも優れていた人なのか、どんどん昇進し、康保3年(967年)には右大臣まで出世しています。
この頃、朝廷で力のあった藤原師輔(ふじわらの もろすけ)の3女を妻とし、3女が亡くなると、5女と結婚し、藤原師輔の支援を受けながら友好関係を保ちます。
また、妻の姉は村上天皇の后で、(と言っても高明自身も村上天皇とは兄弟)憲平親王(のりひらしんのう)・為平親王(ためひらしんのう)守平親王(もりひらしんのう)を産んでおり、后には信頼されていました。
高明は自分の娘を為平親王に嫁がせています。(いとこ同士でずね)
こうやって朝廷内でも力をつけ、康保4年(968年)には憲平親王が天皇となると(冷泉天皇)左大臣に就任します。
しかし、この冷泉天皇病気がちであった為、次の天皇を早く決める必要があり、為平親王が有力な後継者候補でした。
高明にとってはこの義理の息子の候補は嬉しかったでしょう。
しかし、実際の皇太子にはその弟の守平親王(のちの円融天皇)が立てられ高明は失望させられます。(結局、為平親王だけが天皇になれなかった)
しかもこの時には有力な支援者の師輔も村上天皇の后も亡くなっていて、宮中で孤立することとなります。
謀反の密告
こんな時、安和2年(962年)3月25日、源満仲(みなもとの みつなか)・藤原善時(ふじわらの よしとき)が橘繁延と源連の謀反を密告します。
これに高明がどう関わったかは不明です。後の軍記物の「源平盛衰記」には高明が為平親王をたてて東国で乱を起こそうとしたとも書かれていますが、信憑性がありません。
しかし、逮捕された中に藤原千晴(ふじわらの ちはる)と言う人物がいて、(この人の父は平将門を討った藤原秀郷)千晴は高明の従者だったようです。
しかも、源満仲は藤原千晴の競争相手として競っていました。
これを機に高明にも容疑がかかり、役人が高明邸を取り囲み、太宰権帥に左遷させる詔が伝えられます。
太宰権帥とはいっても、菅原道真の例と同じで実際は流罪であり、高明と長男は出家して京都に留まりたいと希望しますが、結局は流罪にされます。
これにより、密告者の源満仲と藤原善時は出世し、空席となった左大臣には藤原一族の藤原師尹(ふじわらのもろただ)が就任します。
この事件は結局、高明の権力を恐れた藤原氏一族の策謀ではないかとされています。
権力を求める藤原氏一族の執念は怖いですね。
高明は天禄2年(971年)には許されて京都に戻りますが、その後は政界に復帰することなく隠棲します。
そして天元5年(981年)に69歳で亡くなっています。
よくあることですが、文安5年(1448年)には従一位と言う官位が遺贈されています。
本人には関係のないことだと思いますけどね。
スマイリー
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