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10月28日の今日は何の日?
1399年 堺で応永の乱が始まる。足利義満(あしかが よしみつVS大内義弘(おおうち よしひろ)の戦い
大内義弘と言えば室町時代初期の大名です。祖先は朝鮮の百済皇子で周防(すおう)長門(ながと)(今の山口県)を中心に豊前(ぶぜん 大分県北部)石見(いわみ 島根県西部)和泉(いずみ 大阪府南西部)紀伊(きい 和歌山県、三重県南部)の守護を兼ねる有力大名でした。
そんな大名が室町幕府に謀反を起こすことになります。
足利義満の大名政策
元々、室町幕府の将軍は有力大名の連合によって擁立されており権力が脆弱でした。
3代将軍となった足利義満は将軍権力を強めようとします。(当然ですね)
1379年(康暦元年)、斯波氏(しばし)と細川氏の対立を利用し、管領だった細川頼之(ほそかわ よりゆき)を失脚させると(康暦の政変)、1389年(康応元年)美濃(みの 岐阜県南部)・伊勢(いせ 三重県中北部)の守護大名だった土岐康行(とき やすゆき)を挑発して挙兵に追い込みこれを討伐します。
1391年(明徳2年)には11ヶ国の守護で「六分の一殿」と呼ばれていた山名氏を分裂けしかけさせ、山名時煕(やまな ときひろ)氏之(うじゆき)兄弟を同族の山名氏清(やまな うじきよ)満幸(みつゆき)に討たせ没落させます。
そして、今度は時煕・氏之を赦免することで、氏清・満幸を挑発し2人を滅亡に追い込みました(明徳の乱)。
1392年には南北朝が合一されますが、僅か7年後には義弘は謀反に追い込まれてしまいます。
義満と義弘の対立
義弘も最初から義満と対立していたわけではありません。
義弘は周防・長門・石見の守護でしたが、北朝方として九州探題だった今川貞世(いまがわ さだよ)に従軍し、九州の南朝方と戦って功績をあげ、豊前の守護を加えられました。
明徳の乱でも戦功が著しく、和泉・紀伊の守護を与えられ、南北朝合一の斡旋の功績で足利氏一門の扱いまで受けるようになりました。
しかし、本拠地が大陸に近く、その地の利を活かして朝鮮と貿易を行い、莫大な富を持っており、しかも、6ヶ国の守護を兼ねたことで、大内氏は義満にとって目障りな存在になってきます。
1394年(応永元年)、義満は嫡男の義持(よしもち)に将軍職を譲り、太政大臣になります。もちろん実権は義満が握っていました。
1395年(応永2年)に義満は太政大臣を辞し、出家すると義弘も追従して出家します。
ここまでは良好だった2人の関係も、1397年(応永4年)に鹿苑寺(金閣寺)の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めたことで、これを拒否し義満の不興をかってしまいます。
同年末に義弘は少弐氏(しょうにし)討伐を命じられ、筑前(福岡県西北部)で戦い、弟の満弘(みつひろ)が討ち死にしますが、その子への恩賞の沙汰がなく、不満を募らせていました。
さらに、義満が裏で少弐氏と菊池氏に大内氏を討つように命じていたという噂が流れ、義弘は憤慨します。
1398年(応永5年)、来日した朝鮮使節から義弘が莫大な進物を受け取っていたことを、斯波義将(しば よしまさ)らが「義弘は朝鮮から賄賂を受け取っている」と義満に讒言し、その事を聞いた義弘は激怒します。
義弘に対し、義満は何度も上洛を督促しますが、「和泉・紀伊の守護を剥奪される」「上洛したところを誅殺される」といった噂が流れ、義弘を不安にさせます。
そして、追い込まれた義弘は、今川貞世を通して鎌倉公方・足利満兼(あしかが みつかね)と結び、土岐氏や山名氏、京極氏、比叡山や興福寺の衆徒、楠木氏や菊池氏といったかつての南朝方の武将とも連絡を取り挙兵を促します。
義弘、挙兵
1399年(応永6年)10月13日、義弘は軍勢を率い、和泉堺の浦に着き家臣を上洛させますが、自身は上洛しなかった為、義満の元に謀反の噂が伝わります。
この時も義満は使者を送り、上洛を促しますが応じず、10月27日に再び使者を送ります。
義弘は一門や重臣たちを対応をはかりますが、弟の弘茂(ひろしげ)は上洛を主張、一方、杉豊後守(すぎぶんごのかみ)という家臣は抗戦を主張し、ついに義弘も宣戦布告を行います。
10月28日、使者より報告を受けた義満は、治罰御教書を出し、ただちに細川氏・京極氏・赤松氏の先発隊6000余騎が淀より和泉へ発向します。
11月8日、義満は馬廻りの2000余騎を率いて東寺に陣を構えます。
11月14日には義満は八幡まで進み、管領・畠山基国(はたけやま もとくに)と前管領の斯波義将の主力3万騎が和泉へ発向します。
一方の義弘は作戦の評定を開き、籠城策をとります。
義弘は材木を集め、井楼(せいろう)48と矢倉1000を建てて、堺に強大な城を築き、「たとえ百万騎の兵でも破ることはできない」と豪語しますが、一方では討ち死にを覚悟し、かねて帰依した僧を招き自身の葬儀をとり行わせています。
また、周防に残した母に形見と遺言を送り、弟の盛見(もりはる)には国を固く守るよう伝えました。
幕府軍3万余騎は堺を包囲し、海上では四国・淡路の海賊衆100艘余りが封鎖します。対する義弘軍は5000余騎が籠城していました。
11月29日に幕府軍は一斉に総攻撃を開始します。
まず、畠山勢2000騎が攻め寄せるも、700人が死傷する激戦となります。
畠山勢に代わり山名時煕勢500余騎が攻め寄せ、城内から500騎が出撃すると、義弘も200騎を率い合力します。さらに伊勢国司・北畠顕泰(きたばたけ あきやす)が山名勢に加勢し激戦となりました。
反義満派の蜂起
その頃、義弘に同心した土岐詮直(とき あきなお)が挙兵し尾張(おわり 愛知県西部)へ討ち入り、美濃の国へ侵攻します。同族の美濃守護・土岐頼益(とき よります)は大内攻めの陣にいましたが、直ちに美濃へ引き返して詮直を打ち破ります。
宮田(山名)時清(みやた とききよ)も義弘に同心し丹波(たんば 京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)へ討ち入り、京へ侵入して火を放ち、八幡の幕府軍本陣へ目指し突入します。
時清の軍勢は、幕府軍を次々と打ち破りますが、ついに力尽き退却します。
また、京極秀満(きょうごく ひでみつ)は近江(滋賀県)で挙兵し京へ侵攻しますが、三井寺の衆徒500人が勢多で橋を焼き待ち受けていました。秀満はやむなく森山に陣を構えて対峙しますが、大内攻めに従っていた京極勢1000余騎が引き返して森山に迫ると土岐詮直と合流しようと美濃国へ向かう途中、土一揆の蜂起にあって潰走し、主従2騎で行方知れずとなります。
関東では、鎌倉公方・足利満兼は1万余騎を率いて武蔵府中高安寺まで進んでいましたが、関東管領・上杉憲定(うえすぎ のりさだ)に諫められ兵を止めています。
堺、落城
堺では幕府軍の総攻撃を撃退した大内勢が気勢を上げていました。
しかし幕府軍は火攻めを計画し、12月21日早朝に総攻撃を開始します。
大内方の杉備中守(すぎびっちゅうのかみ)は今日が最後の戦いと覚悟し、山名満氏(やまな みつうじ 宮田時清の弟)の陣に突撃し討ち死にを遂げます。
これを見た義弘も後世に残るような最期を遂げようと決意し、幕府軍の陣へ切り込み奮戦します。
畠山基国の嫡子・満家(みついえ)の200騎がこれに挑みますが、30騎の手勢でさんざん戦います。
その時、石見の住人の200騎が幕府軍に内応します。これに怒った義弘は石見勢に攻めかかり、恐怖した石見勢は逃げ散ります。
義弘はなおも満家を討ち取ろうとしますが、幕府軍が取り囲み、義弘の手勢は1人となってしまいます。
その1人も義弘を守り、敵陣に突撃して討ち死にしてしまい、1人となった義弘はついに力尽き討取られます。
城の南側を固めていた杉豊後守は、義弘の死を知らされて敵陣に切り込んで討死。また、東側を固めていた弘茂は今川・一色勢を相手に戦っていましたが、手勢を減らされて自害しようとしていたところを家臣に止められ降伏します。
足利満兼は武蔵府中から下野足利荘(栃木県足利市)まで進軍しましたが、義弘の敗死を聞くと鎌倉に引き返しました。
応永の乱後
鎌倉公方・足利満兼は1400年(応永7年)3月、伊豆三島神社に願文を奉献し幕府に謝罪します。満兼を謀反に誘った今川貞世は、幕府から討伐の命を受けた為、上洛し謝罪し、助命されますが、遠江(とおとうみ 静岡県西部)駿河(するが 静岡県中部)の守護を取り上げられ、甥の今川泰範(いまがわ やすのり)に与えられています。
以後、貞世は政治活動から身を引き、和歌や連歌に没頭します。
義弘の分国であった和泉・紀伊・石見・豊前は没収され、周防・長門のみが降参した弘茂に与えられます。
しかし、周防・長門を守っていた、盛見はこれに従わず抵抗します。弘茂は幕府の援軍と共に盛見を攻めこれを追いますが、(兄弟同士の争い)1401年(応永8年)盛見は九州で再挙し、数度の合戦の後、弘茂を滅ぼします。
そして、更に安芸(あき 広島県西部)石見にまで勢力を伸ばしたため、幕府もこれを認めざるを得なくなり、盛見に周防・長門さらに豊前・石見の守護職を与え帰順させています。
こうして大内家は再び盛り返すこととなりました。
大内義弘の一生がわかる本
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