後醍醐天皇に生涯を尽くした名将・楠木正成、湊川の戦いで倒れる。

今日は何の日?
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5月25日の今日は何の日?

1336年 湊川の戦いで楠木正成が足利尊氏に敗れ、弟・正季と共に自害する。

楠木正成(くすのき まさしげ)と言えば、鎌倉時代末期の武将で、少数の兵で鎌倉幕府軍と戦い、幕府滅亡に貢献した人物で個人的にも好きな武将です。

ゲリラ戦のプロで南北朝時代・戦国時代・江戸時代で日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受けており、軍神の化身と評価されています。
                 楠木正成

楠木氏の出自には様々な説がありますが、「太平記」では橘諸兄(たちばな もろえ)の後裔を自称しており、館を河内国(大阪府)南河内郡千早赤阪村に構えていたとあります。

父は楠木正遠(くすのき まさとお)と言われてますが、諸説あり、出生も永仁2年(1294年)?幼名は多門丸です。

挙兵以前の正成は北条高時(ほうじょう たかとき)の命により、摂津国の渡辺党(わたなべとう)や紀伊国の湯浅氏(ゆあさし)・南大和の越智氏(おちし)を討伐したことで六波羅探題(ろくはらたんだい)は感嘆し、また怖れたといいます。

渡辺党を討った時、正成は幕府から紀伊国の阿弖河荘(阿瀬川荘)を与えられています。

正成の挙兵

元弘元年4月、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の討幕計画が幕府に知られると、天皇は8月に笠置山に逃れ、その地で挙兵します。

正成はその時笠置山に参上しており、その時の経緯が「太平記」に以下のように書かれています。

 

天皇が笠置山に籠ると、笠置寺の衆徒や近国の豪族らが兵を率いて駆けつけてきたが、名ある武士や大名などは一人も来ず、不安になり、心配になって休んだ際に夢を見ます。

その夢の中で、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていました。

すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って空に上っていなくなってしまいます。

夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、河内国石川郡金剛山に橘諸兄の子孫とされる楠木正成という物がいるというので天皇は納得し、正成を笠置山に呼び寄せました。

使者を正成の館に送り事情を説明させると、正成は「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾します。

そして、正成は河内に戻り、赤坂城で挙兵します。

9月に笠置山の戦いで敗れた後醍醐天皇らは捕らえられた為、残った正成の赤坂城へ幕府軍が攻め寄せます。

幕府軍は当初、一日で決戦をつけることができると判断し、すぐさま攻撃を開始しますが、正成は寡兵ながらものその攻撃によく耐え幕府軍の城攻めは手詰まりに陥ります。

しかし、赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた正成は、 同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、幕府軍に城を奪わせます。

鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで11月には関東に帰還します。

赤坂城には幕府により湯浅宗藤(ゆあさ むねふじ)が配置され、正成の領地が与えられます。

正成は赤坂城の落城後、しばらく行方をくらまし、同年末、護良親王(もりよししんのう・後醍醐天皇の第3皇子)から左衛門尉を与えられます。

赤坂城奪回

元弘2年4月3日、正成は赤坂城を襲撃し、宗藤を降伏させ赤坂城を奪回します。

楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となり、そ5月17日には摂津の住吉・天王寺に進攻し、渡部橋より南側に布陣します。

京には和泉・河内の両国からは早馬が矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込むと可能性があると知らせたため、洛中は大騒ぎとなり、六波羅探題は5月20日に京から5千の軍勢を派遣します。

5月21日、六波羅軍は渡部橋まで進みますが、正成の策略により三方から攻め立てられ、大混乱に陥った敵は大勢が討たれ、残りは命からがら京へと逃げ帰ります。

この為、武勇で誉れ高い宇都宮公綱(うつのみや きみつな)に正成討伐を命じ、7月19日に宇都宮は京を出発し天王寺に布陣します。

正成は宇都宮が坂東一の弓取りであるため、戦わずに勝つ戦法を取り、夜にあちこちの山で松明を燃やし、宇都宮がいつ攻めてくるのかわからないような不安に陥らせ、三日三晩これを行います。

7月27日夜半、宇都宮がついに兵を京へ引くと、翌朝には正成が天王寺に入れ替わる形で入り、その勢いをさらに増したが、庶民に迷惑をかけてはならぬと部下には命じており、すべての将兵に礼を以て接したため、その勢いはさらに強大となりました。

千早城の戦い

北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣します。

これに対し、正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築きます。

金剛山一体にも要塞を築き、千早城・上赤坂城・下赤坂城の3城で幕府軍に対抗します。

この時もゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦します。

幕府の軍勢が千早城に釘付けになっている間、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、赤松円心(あかまつ えんしん)ら反幕勢力が挙兵します。

5月7日には足利尊氏(あしかが たかうじ)が六波羅探題を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅されます。

5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、楠木軍の勝利に終わります。

正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、6月2日に兵庫で出迎え、道中警護につきます。

天皇が兵庫を出発して以降、正成はその行列の先陣を務め、その後陣には畿内の軍勢7千騎を引き連れていました。

建武の新政~尊氏との戦いへ

鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇の新政が始まり、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使・河内・和泉の守護、河内守(国司)となります。

また、河内・土佐・出羽・常陸の国に多くの所領が与えられます。

正成は建武の新政において後醍醐天皇の絶大な信任を受けており、結城親光(ゆうき ちかみつ)・名和長年(なわ ながとし)・千種忠顕(ちぐさ ただあき)と共に「三木一草(さんぼくいっそう)」と称されます。

しかし、建武元年(1334年)冬、正成が北条氏残党を討伐の為、京を離れた際、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡され、その直後、多くの役職を辞職しています。

建武2年(1335年)中先代の乱を討伐に向かった尊氏が、鎌倉で新政に離反すると、追討の命を受けた新田義貞(にった よしさだ)は12月に箱根・竹ノ下の戦いで敗れ京へ戻り、尊氏はこれを追って京へ迫ります。

だが、北畠顕家(きたばたけ あきいえ)が近江坂本に到着すると、正成は義貞や顕家と合流し、連携を取って反撃を仕掛けます。

28日、正成は義貞、顕家、名和長年、千種忠顕らと共にらと共に京都へ総攻撃を仕掛け、この戦は30日も続き、この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還しました。

しかし、京都の奪還には成功したものの、尊氏、直義(ただよし)兄弟ら足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできませんでした。

足利軍は摂津まで逃れますが、2月11日に正成は義貞、顕家とともに摂津豊島河原の戦いで九州に駆逐します。

この頃、正成と朝廷の間には確執があったと言います。

「梅松論」によると、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、正成が新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したとの事です。

この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、却下されます。

事実は不明ながら、正成は尊氏との和睦提案を容認されなかったばかりか、和睦を進言したことで朝廷の不信を買い、国許での謹慎を命じられます。

その為、月に後醍醐は義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣したが、正成はこの追討軍からは外されています。

義貞は播磨国の白旗城に籠城する足利方の赤松円心を攻めている間に時間を空費し、延元元年(1336年)4月多々良浜の戦いで九州を制圧し態勢を立て直すと、京都奪回を目指して東進します。

尊氏は博多を発ち四国で船隊と合流すると、その数は10万を超えていました。

一方、義貞の軍勢は日ごとに数を減らし、5月13日に兵庫に着いた時には2万を下っていました。

足利方が再び京に迫まり、義貞が兵庫に退却したという早馬が京へ届くと、後醍醐天皇は正成を呼び出し、義貞とともに尊氏を迎え撃つように命じます。

それに対し、正成は比叡山に朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つという作戦を提案します。

この正成の進言に対して公卿らは正成の作戦に納得しつつありましたが、坊門清忠(ぼうもん きよただ)という公卿が反対し、「正成は即刻義貞のいる兵庫に向かうべき」と主張します。

その結果、後醍醐天皇は正成の意見ではなく、坊門清忠の意見を尊重し、正成は今更反論しても仕方がないと考え、朝議の結果を受け入れます。

絶望的な状況下、義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、5月16日には正成は京から兵庫に下向します。

この時、桜井の駅で息子の正行(まさつら)と別れ、河内へ帰します。

             桜井駅跡にある正成父子の別れの石像

24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流したのち会見し、義貞に朝廷における議論の経過を説明します。

正成の最後

25日の辰刻(午前8時頃)、楠木・新田連合軍は足利軍と海を挟んで湊川で対峙します。

正成は他家の軍勢を入れず、7百余騎で湊川西の宿にて布陣し、陸地から攻めてくる敵に備えていました。

だが、戦いが始まると、連合軍は多勢に無勢であったため、正成と義貞の軍勢は引き離されてしまい、前方の敵を倒し、それから後方の敵を倒すことにします。

正成は700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に突撃を敢行します。

正成の菊水の旗を見た直義の兵は取り囲んで討ち取ろうとしたが、正成と正季は奮戦します。

正成と正季は7回合流してはまた分かれて戦い、ついには直義の近くまで届き、足利方の大軍を蹴散らして須磨、上野まで退却させ、直義自身は辛くも逃げ延びることができました。

直義が退却するのを見た尊氏は、「軍を新手に入れ替えて直義を討たせるな」と命じます。

その為、吉良氏・高氏・上杉氏・石堂氏らの軍6000余騎が湊川の東に駆けつけて後方を遮断しようとしたため、正成は正季ともに引き返して新手の軍勢に立ち向かいます。

6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行い、楠木軍は次第に数を減らし、ついに73騎になり、疲弊した彼らは湊川の民家に駆け込みます。

正成は自害しようと鎧を脱ぎ捨てると、その体には合戦での切り傷が11か所にも及んでおり、ほか72人もみな同様に切り傷を負っていました。

正季が「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」と述べると、正成も自分もそう思うと同意し、皆に「さらばだ」と別れを告げ、正成は正季と刺し違えて自害し果てます。

一族16人、家人50余人もまた自害し、皆、炎の中に倒れます。

湊川で自害した正成の首は足利方に回収され、六条河原に梟首されます。

だが、正成の首を見た人々は、延元元年/建武3年(1336年)初頭にも偽の首が掲げられたこともあって、その首が本物か疑ったといいます。

その後、尊氏は残された家族を気遣い、正成の首を故郷である河内に送り返します。

南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされました。

しかし、永禄2年(1559年)、正成の子孫と称する楠木正虎(くすのき まさとら)が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇(おうぎまちてんのう)の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなりますが、名誉回復まではなりませんでした。

明治時代になると、正成を主祭神とする湊川神社が創建されます。

                湊川神社

明治13年(1880年)7月20日には正一位が贈られています。

 

 

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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