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今日は何の日?
1519年(永正16年)8月15日は北条早雲(ほうじょう そううん)の命日です。
北条早雲とは自身では名乗っておらず、本名は伊勢盛時(いせ もりとき)と言われてます。
早雲の子・氏綱(うじつな)が北条氏を名乗ったことで、北条早雲の名が有名になってしまいました。
なので早雲で書きます。
では、伊勢氏って?
室町幕府時代の伊勢氏は足利将軍に仕えた武士です。
足利幕府では政所執事(まんどころしつじ 政所の長官)を世襲できる名家でした。
早雲の父と言われている伊勢盛定(いせ もりさだ)は8代将軍の足利義政(あしかが よしまさ)の申次衆(もうしつぎしゅう)という重要な職に就き、早雲自身も9代将軍・足利義尚(あしかが よしひさ)の申次衆に任命されています。
そして伊勢氏の一族として、備中国(びっちゅうのくに 岡山県西部)の荏原荘を治める領主でした。
伊勢氏は遡ると、一説には桓武平氏の流れになります。
そんな名家に生まれた早雲ですが、生年が2説あります。
1説は1432年(永享4年)生まれで享年88の説、もう1説が1456年(康正2年)生まれで享年64の説です。
僕は1456年生年説をとりたいと思ってます。
理由は早雲の長男・氏綱の生年が1487年(長享元年)のためです。
もし、早雲が1432年生まれなら、56歳の時の子ということになり、家の存続という事を考えると不自然ですね。
歴史的にも内紛の原因にもなりがちです。
文書にも「伊勢盛時」の名は1481年(文明13年)から出てきてますし、前者の説だと前半生は何をしてたのかとなりますね。
駿河内紛
早雲には兄弟がいて、姉もしくは妹に北川殿(きたがわどの)という女子がいました。
北川殿は駿河国(するがのくに 静岡県中部・北東部)の守護・今川義忠(いまがわ よしただ)と結婚し、1473年(文明5年)には嫡男の龍王丸(後の今川氏親 いまがわ うじちか)を産んでいます。
しかし、義忠は1476年(文明8年)の遠江(とおとうみ 静岡県大井川以西)での戦いで討死してしまいます。
残された龍王丸は幼少であり、やはり内紛が発生しました。
今川氏の家臣らが義忠の従兄弟である小鹿範満(おしか のりみつ)を擁立してきたためです。
これには堀川公方の足利政知(あしかが まさとも)や扇谷上杉家(おうぎがやつ うえすぎけ)が介入することとなり、政知家臣の上杉政憲(うえすぎ まさのり)や扇谷上杉家の執事・太田道灌(おおた どうかん)が兵を率いてきました。
因みに小鹿範満と上杉政憲は血縁関係にあります。
龍王丸側は不利な状況でしたが、早雲は北川殿の兄弟として駿河へ行き、双方の調停を行います。
範満が龍王丸の成人するまで家督を代行するということで、一応決着し、上杉政憲と太田道灌は撤兵しました。
今川氏の内紛を治めた早雲は京都へ戻り、足利義尚に仕え奉公衆となっています。
1479年(文明11年)前将軍・足利義政は龍王丸の家督継承を認めて、本領を安堵する文書を出しますが、龍王丸が15歳になっても範満は家督を戻そうとはしませんでした。
そのため、1487年に早雲は再び駿河に向かい、仲間を集めて小鹿範満の駿河館を襲い、範満とその弟を殺害します。
これにより、龍王丸は駿河館に入り、2年後には元服して今川家を正式に継ぐことが出来、この功労により、早雲は伊豆(いず 静岡県伊豆半島)との国境に近い興国寺城を与えられ、関東に進出する地盤が出来ました。
伊豆進出
この頃の伊豆は堀川公方と呼ばれる足利政知が支配していました。(政知は8代将軍・義政の異母兄です)
政知には茶々丸(ちゃちゃまる)、清晃(せいこう)、潤童子(じゅんどうじ)の子がおり、清晃と潤童子は正室・円満院(えんまんいん)の子でした。
清晃は出家して京都にいましたが、1491年(延徳3年)に政知が亡くなると、茶々丸は円満院と潤童子を殺害して、強引に家督を継ぎます。
そして京都では1493年(明応2年)4月に管領の細川政元(ほそかわ まさもと)が10代将軍・足利義材(あしかが よしき)を追放し、清晃を将軍に擁立します。(明応の政変)
義澄(よしずみ)と改名した清晃は、母と弟の敵討ちの為、茶々丸の近隣に城を持つ早雲に茶々丸討伐を命じます。
大義名分を得た早雲は、茶々丸を攻撃しますが、茶々丸は堀川御所を逃亡しており、武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁され抵抗を続け、早雲は5年かかって伊豆を平定しました。
伊豆を平定する一方、早雲は今川の武将として遠江へ侵攻し、早雲と氏親は連携して領土を拡大していきます。
次は相模へ
関東では山内上杉家と庶流の扇谷上杉家が争っていました。
扇谷上杉家の上杉定正(うえすぎ さだまさ)は早雲に援軍を依頼し、関東管領で山内家の当主・上杉顕定(うえすぎ あきさだ)の軍と対峙しますが、定正が落馬して死去してしまい、早雲は撤退します。
しかも扇谷家では定正の他、重臣の大森氏、三浦氏でも当主をなくしています。
茶々丸の捜索を大義名分としていた早雲は、1495年(明応4年)には甲斐国(かいのくに 山梨県)に攻め込み、甲斐守護の武田信縄と戦い、同年9月には小田原の大森藤頼を討って小田原城を手に入れます。
1498年(明応8年)にはついに茶々丸を捕縛し殺害することに成功します。
その後は相模国(さがみのくに 神奈川県の大部分)に転進し、関東の制圧に乗り出しますが、伊豆と西相模を失った上杉顕定が義澄・政元に接近してしまい、氏親・早雲の政治力が低下してしまいます。
さらに、政元が今川氏と対立関係にある遠江守護・斯波氏と顕定の連携を図ったことから、両者に挟撃される危険も出てきました。
そのため、政元に追放されていた義材に与して相模に勢力を拡大していきます。
1504年(永正元年)8月、上杉定正の甥で扇谷家の当主となった上杉朝良(うえすぎ ともよし)に味方した早雲は、氏親と共に出陣して上杉顕定に勝利します(立川原の戦い)
この敗戦後、顕定は弟で越後(えちご 新潟県)守護・上杉房能(うえすぎ ふさよし)と共に反撃を開始し、扇谷家の城を次々に落とします。
河越城に追い込まれた朝良は降伏し、早雲は山内家・扇谷家の2家と敵対することとなりました。
しかし、また京都で事件が起きます。
管領の細川政元が養子の細川澄之(ほそかわ すみゆき)に暗殺されたのです。(永正の錯乱)
そして、越後でも上杉房能が越後守護代の長尾為景(ながお ためかげ)に討たれる事件が起きます。
こうして京都には前将軍・義材が復帰し、義澄は追われてしまいます。
このため早雲と氏親に対する政権の圧迫がなくなり、早雲は為景や長尾景春(ながお かげはる)と組み、上杉顕定を牽制しました。
1509年(永正6年)7月、顕定は大軍を率い越後へ出陣すると、8月には早雲がこの隙をついて扇谷家の本拠地・江戸城に迫ります。
出陣していた朝良は兵を引き返して、翌1510年(永正7年)まで早雲と戦います。
早雲は権現山城の上田政盛(うえだ まさもり)を扇谷家から離反させ攻勢に出ますが、山内家の援軍を得た扇谷家の反撃にあい権現山城は落城します。
さらに、三浦義同(みうら よしあつ)が早雲方を攻略し、小田原城に迫ったため、敗北を喫した早雲は扇谷家と和睦することで切り抜けました。
一方、越後に出陣していた顕定は、為景の逆襲により敗死し、死後は2人の養子の争いが発生します。
古河公方家でも足利政氏(あしかが まさうじ)・高基(たかもと)父子の抗争が起こり、朝良はこれらの調停に追われます。
この間に相模で大きな力を持っていた三浦氏を滅ぼそうと、1512年(永正9年)8月に早雲は相模の岡崎城を攻略し、義同を住吉城に敗走させます。
住吉城も落とされた義同は、息子・義意(よしおき)の守る三崎城に逃げ込みました。
早雲は鎌倉に入り、相模の大部分を支配に成功します。
朝良の甥の朝興(ともおき)が江戸城から救援に駆けつけますが、早雲はこれを撃破します。
さらに三浦氏を追い詰める為、同年10月には鎌倉に玉縄城を築きました。
義同も兵を繰り出し、早雲と戦果を交えますが、次第に三浦半島に封じ込められ、扇谷家からの救援も悉く撃退されました。
1516年(永正13年)7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、義同・義意の籠る三崎城に攻め寄せます。
激戦の末、義同・義意父子は討ち死にし、三浦氏は滅び、ついに相模は平定されました。
その後早雲は、上総(かずさ 千葉県中部)の真里谷武田氏(まりやたけだし)を支援し、房総半島に渡り1517年(永正14年)まで転戦しています。
1518年(永正15年)には家督を息子の氏綱に譲り、翌1519年(永正16年)に死去しました。享年64
氏綱は2年後、菩提寺として神奈川県箱根町に早雲寺を創建させています。
早雲の跡を継いだ氏綱は北条氏を称し、5代に渡り関東に覇を唱えました。
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スマイリー
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コメント
北条早雲は関東の北条氏とは別の家柄だったんですね。
楽しく読ませていただきました。
Sakoさん
コメントありがとうございます。そうなんです。別の家柄なんです。
ただ、両者とも祖先は桓武平氏(桓武天皇の子孫)という説もあります。
もしかしたら自分達が言ってるだけかもしれませんが。
有名人を祖先にして、自分の家柄を高めたいんですかね。