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遅くなって、1日遅れの「今日は何の日?」になってしまいました。
1016年1月29日
三条天皇が敦成親王(後一条天皇)へ譲位。藤原道長が摂政に就任。
藤原道長 康保3年(966年)~万寿4年12月4日(1028年1月3日)
藤原道長
藤原北家(藤原4家の1つ)の出身、摂政・関白・太政大臣の藤原兼家の5男(4男の説もあり)。
後一条天皇・御朱雀天皇・御冷泉天皇の外祖父。
円融・花山・一条・三条・後一条の5代の天皇にわたり仕える。
5男でありながら、兄たちの死により、甥との政争に勝ち左大臣に就任。摂政・太政大臣までなっています。
自分の娘たちを后として入内させ、孫が天皇となることで外祖父となりました。
絶頂期には、「この世をば わが世とも思ふ 望月のかけたることの なしと思へば」と言う歌を詠んだことで有名です。
晩年には法成寺の造営に勢力を傾けます。
出生
藤原北家と言う家柄の出身ですが、5男という事もあり、兄に道隆(長男)、道兼(三男)などがいた為、それ程目立つ存在ではなかったようです。
980年には15歳で初めて従五位下という位になりました。
当時の天皇は花山天皇でしたが、986年には、父・兼家と通兼が中心となり、花山天皇を出家・退位に追い込みという事件、寛和の変を起こしています。
この事件で道長は関白に報告する役割を果たしてます。
そして幼い懐仁親王が即位して天皇となることで(一条天皇)、兼家が摂政となり、道長達息子は急速に出世しました。
988年には権中納言となりましたが、その頃、妻倫子との間に長女・彰子が誕生してます。
因みに、妻は倫子だけでなく、源高明の娘・明子とも結婚し、他にも大勢の妾もいます。
伊周との争いへ
990年に兼家が亡くなると、長男の道隆が跡を継ぎ、摂政・関白となります。
道隆も自身の娘・定子を后としてたて、道長は中宮大夫になります。
ただその頃は、道隆の時代で、その嫡男・伊周が道長を凌いで内大臣に任じられていたこともあり、道隆の後継者と目されていました。
その上、一条天皇と后となった定子の関係も良好で、天皇の義兄でもある伊周には信頼が厚かったようです。
その伊周に暗雲が垂れ込めたのが、995年に都で猛威を振るったあかもがさ(今で言うはしか)。
多くの公卿が亡くなり、道隆もその最中亡くなりますが、道隆の死因は別にありました。
元々大酒のみでそれが原因なのですが、亡くなる際、伊周への関白就任を天皇へ頼んだが、拒否されたの事。道隆の子供へ託したい気持ちですね。
次の関白には弟の通兼が任じられますが、なんと数日でなくなってしまい「7日関白」と呼ばれています。
「次は自分の出番」と伊周は思ったでしょうが、結局道長へと回ってきます。
それには一条天皇の母であり、道長の姉である詮子の意向が働いたらしいことが大鏡に書かれてます。
そして道長が右大臣へ就任し、藤原氏長者(簡単に言うと一族のトップ)になります。
伊周の失脚の決定的事件が、996年に起きた長徳の変です。
伊周と弟の隆家は、女性関係が原因で花山法皇に矢を射かける事件を起こしてしまい、これがばれて、伊周は太宰権帥、隆家は出雲権守へ左遷されてしまいます。
これ以後、道長は左大臣に昇進し名実ともに第1人者となります。
天皇家との関係
ここにきて道長も先代たちと同じことを行います。
まず、998年には長女彰子を一条天皇の元へ女御として入内させています。
1000年には彰子を皇后としますが、一条天皇には定子という皇后がいたはず。
1人の天皇に2人の皇后、これは先例のないことでしたが、定子を皇后、彰子を中宮とすることで強引に押し通しています。
1008年には彰子が敦成親王を、翌年には敦良親王を出産し、この喜びぶりは紫式部日記に出てます。
三条天皇との対立へ
1011年、一条天皇が三条天皇に譲位して亡くなると、東宮(皇太子)にはまだ4歳の敦成親王がたてられます。
そして、東宮時代の三条天皇に入内していた次女の研子を皇后にします。
道長と天皇は叔父・甥の関係にはあったのですが、連帯意識は弱く、天皇が自身で政治を行おうとし、関係が悪化していきます。
道長との確執から政務が渋滞していき、孤立した天皇は、失明寸前の眼病にかかってしまい、これを理由に道長から譲位を迫られます。
1015年内裏が炎上する事件が起こり、さらに譲位を強く迫られた天皇は、自身の皇子(敦明親王)を東宮とすることで、譲位を認めます。
1016年に三条天皇は譲位し、敦成親王が天皇となりました(後一条天皇)。
東宮には三条天皇との約束通り、敦明親王を東宮としますが、道長とは外戚関係になく、頼りになる後ろ盾がいませんでした。
その為、1017年に三条上皇が亡くなると、敦明親王自ら東宮を辞退してます。
道長は、辞退した敦明親王を天皇の身分に準じるものとし、代わりに孫の敦良親王を望み通り東宮として立てます。
この頃は道長の絶頂期でしたが、摂政と藤原氏長者は嫡男の頼道に譲って、後継体制を固めています。
1018年には11歳になった後一条天皇に三女の威子を入内させ、中宮としてます。書いててまたかよ~って感じですね。
道長の晩年
1019年3月、病となった道長は剃髪して出家します。
1021年には末女の嬉子も将来の皇妃となるように、敦良親王に入侍させますが、親仁親王を産むと、1025年に嬉子は亡くなってます。
道長は、自身の権威を知らしめるため、また死後に極楽浄土を願いたいと言う気持ちから法成寺の造営に精力を傾け、法成寺に住みますが、この頃には多くの子供たちに先立たれ、病気がちだったようで、安らかとは言えなかったようです。
法成寺跡
1028年62歳で亡くなりますが、死の数日から大きな腫物ができ、苦しんだとされています。
道長の死後
道長は藤原北家の全盛期を築き、摂関政治が崩壊しても彼の子孫のみが摂政・関白を代々世襲します。そして五摂家と言う家柄を輩出します。
一方では、道長の4男であり、頼道の異母弟である能信が即位前の後三条天皇を独力で庇護し、それが摂関政治の凋落と院政へと繋がることになります。
スマイリー
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