足利家内の対立、足利直義VS高師直から尊氏・直義の兄弟対決へ

今日は何の日?
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今日は何の日?

1351年2月26日 高師直(こうの もろなお) 1352年2月26日 足利直義(あしかが ただよし)の命日です。

高師直と足利直義の関係

実は高師直は足利家の執事です。足利直義の兄・足利尊氏(あしかが たかうじ)に仕えていました。

元々、高氏の先祖は天武天皇の孫・長屋王(ながやおう)の子孫が臣籍降下して高階氏(たかなしし)を名乗りました。

そして、高階氏は11世紀頃には源義家(みなもとの よしいえ)に臣従していました。

それから義家の子孫である足利氏に重臣として仕え、足利氏の執事を世襲するようになりました。

師直の人物像

                高師直(説)

師直という人物は兄弟の師泰(もろやす)とともに評価の低い人物とされていました。

それは軍記物の「太平記」によると悪逆非道な人物として描かれていたからです。

僕も太平記を読み、そのように思っていましたが、2人共名将であったようです。

特に師直は政治家として、武将として有能でしたが、南朝よりの太平記にはよくは描かれてませんでした。

反対の立場から見ると、ここまで評価が変わってしまうものですかね。

確かに石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)・吉野行宮(よしのあんぐう)・金峯山寺蔵王堂(きんぷせんじ ざおうどう)などの聖域を焼き討ちを行い、批判も浴びていますが。

しかし、その他の悪行は太平記の創作だったようです。

政治家・行政官としての能力に秀でており、執事として室町幕府の政治機構をの改革を断行する革新の人でした。

武将としても南朝方の鎮守府将軍・北畠顕家(きたばたけ あきいえ)石津の戦い(1338年)で破り、四条畷の戦い(1348年)では、楠木正成(くすのき まさしげ)の子で小楠公とも言われる・正行(まさつら)・正時(まさとき)兄弟を滅ぼしています。

これによって武名と権威を高め、足利尊氏でも抑えられない力をもちます。

足利直義とは?

                  足利直義(説)

足利直義は足利貞氏(あしかが さだうじ)の三男として生まれ、1歳違いで母も同じの尊氏とはもともと仲もよかったようです。

鎌倉幕府打倒には兄と共に戦い、京都の六波羅探題攻めに参加します。

建武の新政では左馬頭(さまのかみ)に任じられ、鎌倉府将軍・成良親王(なりよししんのう)を奉じ鎌倉府の執権となり、鎌倉府の基礎を築きました。

建武2年(1335年)に中先代の乱が起こり、滅亡した北条高時(ほうじょう たかとき)の子・時行(ときゆき)が鎌倉に攻めてくると敗れ、三河国(みかわのくに 愛知県東部)へ逃れますが、
その際、政変で幽閉していた護良親王(もりながしんのう)を部下に殺害させています。

その後、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に無断で来援した尊氏と合流し、時行軍から鎌倉を奪回します。

しかし、建武政権から足利尊氏の追討が出て、新田義貞(にった よしさだ)を大将とする追討軍が派遣されると、尊氏は赦免を求めて隠棲したため、直義らは駿河国(するがのくに 静岡県中部・北東部)の手越河原で戦いますが、敗れてしまいます。

危機感をもった尊氏が出馬すると、箱根・竹ノ下の戦いで追討軍を破り京都へ進撃します。

一度は京都を追い出されて、九州に落ち延びたものの、体制を立て直して湊川の戦いで新田義貞・楠木正成らを破ると再び京都へ入りました。

尊氏が光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立すると、暦応元年(1338年)には尊氏は征夷代将軍、直義は左兵衛督(さひょうえのかみ)に任ぜられ、政務を尊氏と共同で二頭政治を行います。

高師直との対立~観応の擾乱

しかし1348年頃より、執事の高師直との対立が始まります。

そして幕府が直義派と反直義派に分かれて争う観応の擾乱(かんのうのじょうらん)に発展し、吉野へ逃れていた南朝方もこの混乱を機に勢力を強めます。

直義派の讒言を受け、尊氏が師直の執事職を解任すると、貞和4年(1349年)師直は師泰と共に直義を襲撃し、逃げ込んだ尊氏の屋敷を大軍で包囲します。

高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退くことを条件に和睦し、直義は出家し恵源(えげん)と号します。

翌、観応元年(1350年)尊氏・師直が直義の養子・直冬(ただふゆ 尊氏の非嫡出子だが、直義へ養子に出される)を討つ為に中国地方へ遠征すると、直義はその隙に京都を脱出し、師直追討を掲げて南朝に降伏します。

一方、京都の北朝は直義追討令を出しますが、直義は尊氏方を圧倒し観応2年(1351年)尊氏方を破ります。(打出浜の戦い)

今度は尊氏が師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦しますが、師直・師泰は摂津から京都へ護送される際、直義派の上杉能憲(うえすぎ よしのり)一族ごと殺されました。

養父上杉重能(うえすぎ しげよし)師直・師泰に暗殺されていた為。)

師直兄弟を排除した後は、尊氏の嫡子・義詮(よしあきら)の補佐として政務に復帰しますが、結局、尊氏・義詮父子との仲は良くならず、尊氏父子は出陣と称し京都から出て、播磨国(はりまのくに 兵庫県南西部)と近江国(おうみのくに 滋賀県)で反直義の体制を整えます。

それを見た直義は京都を脱出し、鎌倉で反尊氏の勢力を糾合します。

これに対し尊氏父子は南朝に降り北朝も廃し、一度は南朝へ統一がなります。(正平の一統)

新たに南朝から直義追討令を出してもらった尊氏は、駿河国(するがのくに 静岡県中部・北東部)薩埵山・相模国(さがみのくに 神奈川県)早川尻で直義方を連破し、直義は正平7年(1352年)1月5日、鎌倉で武装解除されます。

延福寺に幽閉された直義は同年2月26日に急死します。享年47

これには、尊氏による毒殺の説もあります。

観応の擾乱は直義の死により終わりを告げますが、直義派は直冬を盟主として抵抗し、1364年頃まで続くこととなります。

尊氏はその死の直前、延文3年(1358年)に直義を従二位にすることを後光厳天皇(ごこうごんてんのう)に願い出、更に正二位が遺贈されます。

康安2年(1362年)7月22日には、「大倉宮」の神号が与えられ、天竜寺付近には直義を祀る寺も建てられています。

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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