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1159年12月9日 藤原信頼・源義朝が後白河天皇の御所を襲撃~平治の乱の始まり
保元の乱で生き残った者の権力争い
平治の乱は1156年に起こった保元の乱の第2弾ですね。
保元の乱では崇徳上皇(すとくじょうこう 兄)VS後白河天皇(ごしらかわてんのう 弟)の兄弟対決、藤原摂関家では、藤原忠実(ふじわらの ただざね 父)・頼長(よりなが 弟)VS忠通(ただみち 兄)の親子兄弟対決に源氏・平氏などの武士がそれぞれ味方し争いました。
その結果、後白河天皇側が勝利し、崇徳上皇は島流し、藤原頼長は敗死、忠実も命こそ助かったものの財産を没収され権力を失います。
しかし、勝った忠通も政治の中枢から外れるなど政治権力を失っていき、摂関家は勢力を弱めます。
源氏では崇徳上皇側に親子の多くが味方した源為義(みなもとの ためよし)一家も殆どが処刑されてしまい、後白河天皇に味方した源義朝(みなもとの よしとも)が何とか残ります。
対して平氏は平清盛(たいらの きよもり)が一族のほとんどをまとめて後白河天皇に味方した為、源氏に対し優勢となります。
そして、この戦で、主導権を握ったのが信西(しんぜい)でした。
信西は貴族で頭のいい学者でしたが、政治改革を行うのに、自らの息子達を要職に抜擢させたりして、他の貴族から反感を買ってしまいます。
この頃の政治体制
戦の勝利となった後白河天皇でしたが、実は権力は盤石ではありませんでした。
それは、保元の乱前に崩御した鳥羽法皇(とばほうおう この時の実力者)の本来の意思が後白河天皇でなくその子の守仁親王(もりひとしんのう 後の二条天皇)にあったからです。
しかし、親王は若過ぎた為、その中継ぎとして父親の後白河天皇が即位したようです。
そして親王を擁立しようとするグループができますが、その筆頭が美福門院(びふくもんいん 鳥羽法皇の后)でした。
親王を自らの養子としていた美福門院は大きな経済基盤を持っており、この力を背景に信西に親王の即位を要求します。
こうして、後白河天皇は守仁親王に譲位し、二条天皇が誕生します。
二条天皇のグループは藤原経宗(ふじわらの つねむね 二条天皇の伯父)藤原惟方(ふじわらの これかた 二条天皇の乳兄弟)らが院政を始めた後白河上皇の政治活動を抑圧します。
この2人は後白河上皇にとって将来まで憎い敵となってしまいます。
この事から後白河上皇は自らの勢力を支える近臣が必要とおなってきており、そこに抜擢されたのが藤原信頼(ふじわらの のぶより)です。
この人物は武蔵国(むさしのくに 東京と埼玉・神奈川の一部)の国司(長官)であったのが、どんどんと出世していきます。
そしてこれと深く結びついていたのが源義朝でした。
元々、武蔵国を知行国としていた信頼一門が関東に勢力を持っていた義朝と提携していきます。
義朝という武力を得た信頼は、自らの妹を摂関家の藤原基実(ふじわらの もとざね)と婚約させ、力を強めていきます。
こうして信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門と言ったグループが形成されます。
信西排除
この中で1番に狙われたのは信西です。
信西に対する他の貴族たちの反発は強く、激しく対立しあっていた二条親政派と後白河院政派ですら、信西憎しの一心で信西打倒の機会を伺っていました。
一方、最大の軍事力を持つ清盛は信西・信頼のいづれとも婚姻関係を結んで中立的な立場をとっており、親政派・院政派とも距離を置いていました。
平治元年(11599年)12月、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生じた隙をつき、反信西派はクーデターを起こします。
12月9日深夜、信頼と信頼に同心する武将らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃します。
信頼らは後白河上皇・上西門院(じょうさいもんいん 後白河上皇の同母姉)の身柄を確保し三条殿に火をかけます。
警備の者や一般官人、女官などが犠牲になりますが、信西一門は逃げ去っていました。
そして、後白河上皇・上西門院を軟禁状態とします。
翌10日には信西の子息たちが捕縛され、22日には全員の配流が決定します。
13日、信西は山中に逃れ、土中に埋めた箱の中に隠れていましたが、発見されて掘り起こされる音を聞くと、喉をついて自害します。
信西の首は京都で獄門にさらされました。
こうして信西は消え、信頼が政権を奪取しますが、この時には多くの貴族が信頼に対して反感をもっていました。
もとより一時的に手を結んだだけでしたので、二条親政派が密かに離反の機会を伺っていたのは当然です。
二条天皇の脱出
熊野を参詣していた清盛は、紀伊国(きいのくに 和歌山県、三重県南部)で京都の異変を知ります。
動揺した清盛は九州へ落ち延びようと考えますが、紀伊の国の武士や熊野別当(熊野三山を統括する役職)の協力を得て、17日に帰京し、伊賀(いが 三重県西部)や伊勢(いせ 三重県)の郎党が合流します。
一方、隠密裏にクーデターを起こしたため、義朝には僅かの軍勢しかおらず、京都での軍事バランスが崩れ、信頼の優勢も揺らぐこととなりました。
信西と親しかった内大臣・三条公教(さんじょう きみのり)は信頼の専横に憤り、清盛を説得するとともに、二条親政派の経宗・惟方に接触します。
二条親政派にとっては信西を打倒すれば、後白河院政派は邪魔な存在なだけです。
公教と惟方によって二条天皇の清盛屋敷への六波羅行幸の計画が練られます。(いわゆる脱出ですね)
25日早朝、清盛は信頼に名簿を提出し、恭順の意思を示します。
信頼は清盛が味方に付いたと喜びますが、義朝は危惧を抱きます。
25日の夜、惟方が後白河上皇に二条天皇の脱出計画を知らせると、後白河上皇もすぐに仁和寺へ脱出します。
こうして、信頼・義朝ら院政派は後白河上皇に見捨てられでしまいます。
26日の丑の刻、二条天皇は六波羅の清盛屋敷に移動し、この事を惟方の弟が触れ回ると、公卿らは続々と六波羅に集結します。
信頼と婚姻関係にあった摂関家の忠通・基実父子までもが六波羅に参入したことで、清盛軍は官軍としての体裁を整えることとなり、信頼・義朝の追討の院宣が下されました。
26日の早朝になり、上皇・天皇の脱出を知った院政派は動揺し、義朝は信頼の事を「日本第一の不覚人」と罵倒したとか。
信頼は義朝と武装して出陣しますが、脱出・逃亡した者や寝返った者が出て、義朝も敗退します。
戦後処理
信頼は仁和寺の覚性入道親王(かくせいにゅうどうしんのう 鳥羽法皇の第5皇子)の元に出頭し、自己弁護をしますが、信西殺害・三条殿襲撃の首謀者として処刑されます。
一方、義朝は東国への脱出を図りますが、息子の頼朝(よりとも)とははぐれ、朝長(ともなが)らを失い、尾張国(おわりのくに 愛知県西部)の長田忠致(おさだ ただむね)の元にたどり着き、そこで家臣と共に殺害されます。
義朝の長男・義平(よしひら)は捕まり処刑されます。
頼朝も捕まりますが、助命され伊豆(いず 静岡県東部)へ流されました。
合戦で勝利した平氏は、恩賞でそれまで5ヶ国だった知行国が7ヶ国まで増えることとなります。
信西・信頼といった対立相手が消え、実権を握った経宗・惟方ですが、いっそう後白河上皇に対する圧迫を強めます。
2人は、八条見物をしていた後白河上皇の邪魔をするといった嫌がらせを行ったという事で、捕まり後白河の眼前で拷問にかけられます。
信西の子息たちが許されて帰京したのと入れ替わりに配流されます。
結局、信西殺害に関与した者たちは、二条親政派・後白河院政派の関係なく全て一掃されてしまいました。
そして、平氏による初めて武家政権へなるわけです。
平清盛
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