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5月18日の今日は何の日?
1333年 鎌倉で新田義貞率いる反幕府軍と北条高時率いる鎌倉幕府軍の合戦が始まる。
1331年から始まった元弘の乱(げんこうのらん)で後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が討幕を目指し、後醍醐天皇の皇子護良親王(もりよししんのう)や楠木正成(くすのき まさしげ)が大和国(奈良県)・河内国(大阪府)で挙兵して幕府に対抗していました。
これを押さえるために、幕府は足利尊氏(あしかが たかうじ)らを大将として派遣し、新田義貞(にった よしさだ)もこれに参加していました。
しかし、義貞は密かに後醍醐天皇と結び、討幕に参加しようと計画し、自身の領地であるの上野国へ病気を理由に帰国します。
その頃幕府は各地の反乱を討伐するのに、軍資金を必要としており、義貞の元にも徴税の使者がやってきて、納入を要求します。
これに怒った義貞は使者を殺害し、幕府に反抗姿勢を示します。
幕府からの軍勢が差し向けられるという情報を得て、追い詰められた義貞は挙兵を決意します。
新田義貞
正安3年?~延元3年/建武5年7月2日(1338年8月17日)
河内源氏義国流新田氏8代目棟梁
父・新田朝氏。父が45歳で死去したことにより、8代目を相続します。
新田氏は源義家(みなもとの よしいえ)の孫義重(よししげ)を祖先にもつ名家です。
新田氏は長男・義重、足利氏は次男・義康(よしやす)の家系です。
しかし、義康は源頼朝と近く北条氏とも親しい関係にありましたが、義重は平家側に属していた為、鎌倉時代には地位の低いものとなっていました。
特に新田氏の4代・5代、また父の時代には名前に「氏」と言う字が入っています。これは足利氏が「氏」と付けていた為、足利氏の庇護に入っていたと考えられています。
義貞の頃には「氏」と入ってないので、足利氏から離れているようですが、同じ祖先とは言え、尊氏とは格段の差がありました。
その為か、一族を纏め上げられず、尊氏が将来、後醍醐天皇から離れた時には、一族の何名かが尊氏と行動を共にします。
しかし、関東の一御家人から南朝の総大将として生涯を尽くした人です。
新田義貞の挙兵
新田義貞
5月8日にわずか150騎と言う少数で生品神社(群馬県太田市)で挙兵した義貞ですが、北条氏に不満を持つ関東の武士や一族が集まり、7000騎の軍勢で武蔵の国へ進撃します。
この時、鎌倉から脱出してきた足利尊氏の子・千寿王(せんじゅおう)が合流し、さらに味方が増えました。
義貞は11日に小手指原(埼玉県所沢市)で幕府軍と衝突します。(小手指原の戦い)
この戦いで両軍は疲弊し、義貞は入間川に幕府軍は久米川にいったん撤退し、立て直しを図ります。
そして、翌日に義貞は幕府軍を奇襲し、再度戦闘が発生しました。(久米川の戦い)
幕府軍は撃破され、分倍河原(ぶばいがはら 東京都府中市)へ撤退します。
しかし、ここへ幕府軍に北条泰家(ほうじょう やすいえ 北条高時の弟)率いる援軍が駆けつけ、士気が高まりました。
この事を知らなかった義貞は15日、突撃を敢行し幕府軍と衝突しますが(分倍河原の戦い)、迎撃され敗走させられてしまいます。
しかし、その晩、義貞にも味方が集まり、再度16日に分倍河原に押し寄せた為、幕府軍は敗走します。
因みに分倍河原の戦いとは室町時代にもあります。鎌倉公方の足利成氏(あしかが しげうじ)と関東管領の上杉顕房(うえすぎ あきふさ)との戦いです。
この地は合戦するのに向いた土地なんですかね。
この地で義貞軍が勝利したことにより、義貞軍に味方が集まり、「太平記」では60万の大軍になったとあり、幕府軍は守勢に転じます。
更に同日、幕府軍の北条泰家と決戦が起こり(関戸の戦い)、勝利した義貞は鎌倉に攻め上がりました。
相次ぐ敗戦で幕府軍は鎌倉の防備を固め、鎌倉街道を進軍してくる義貞軍に対し、金沢貞将(かなざわ さだまさ)を化粧坂に、大仏貞直(おおらぎ さだなお)を極楽寺坂切通しに、北条守時(ほうじょう もりとき)を小袋谷へ配置します。
17日に関戸で態勢を立て直した義貞も、化粧坂・極楽寺坂・小袋坂の3方から総攻撃をかける手はずを整え、18日に攻め入りますが、当初はいずれも失敗し突破することができませんでした。
極楽寺坂ではなんとか突破に成功しますが、大将が討ち死にしてしてしまいます。
しかし、小袋谷ではその夜には北条守時が自害しています。
北条守時(赤橋守時)
北条氏一門で鎌倉幕府最後の16代執権(しっけん)。
在職 正中3年4月24日(1326年5月26)~元弘3年5月18日(1333年6月30日)。
父は北条(赤橋)久時。北条氏の総領である得宗家(とくそうけ)出身ではないが、それに次ぐ赤橋家の出身です。
14代執権の北条高時が出家した後、嘉暦の騒動(かりゃくのそうどう)という、高時の子である邦時(くにとき)を執権に推す一派と、高時の弟の泰家を推す一派が争って執権のなりてがなかった時に、北条氏庶流の金沢顕貞(かなざわ あきさだ)が15代執権となりますが、10日余りで辞任し、守時が16代執権になることで収拾します。
しかし、実権は高時やその家臣の長崎氏に握られていました。
更に守時の妹は足利尊氏の正室になっており、尊氏が討幕側に寝返ったことで裏切り者の一味となり、立場が悪化しており、高時に謹慎させられています。
このような中で、小袋谷で敗れた守時は洲崎(鎌倉市深沢)で自害し39歳の生涯を終えます。
守時の子である益時も父に殉じて自害しています。
洲崎古戦場後の石碑
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スマイリー
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