奥州の覇者、伊達政宗も秀吉・家康には敵わず、何度も知行を減らされる。

今日は何の日?
Pocket

おはようございます。 スマイリーです。

訪問いただき、ありがとうございます。

ランキングに参加しています。ポチっとご協力をお願いします。
↓ ↓ ↓

日本史ランキング

8月3日の今日は何の日?

永禄10年8月3日(1567年9月5日)伊達政宗生誕

伊達政宗(だて まさむね)と言えば、伊達家17代当主、奥州(東北地方)の覇者、ドラマでもよく出てくる仙台藩の初代藩主です。

幼名は梵天丸(ぼんてんまる)。幼少期に天然痘で右目を失明した為、独眼竜の異名をもちます。

父は16代伊達輝宗(だて てるむね)母は最上義守(もがみ よしもり)の娘・義姫の嫡男として生まれています。

実は政宗は2人いた?!

先祖の9代当主も政宗を名乗っており、輝宗がこの9代目政宗にあやかり、政宗と名付けたらしいです。

それまでの伊達家は足利将軍より一字を拝領する慣習がありましたが、当時の足利将軍は義昭(よしあき)であり、織田信長(おだ のぶなが)に追放されたいたので拝領しなかったとのこと。

もし、拝領していたら、昭宗とでも名乗っていたかもですね。

初陣から奥州を制圧するまで

天正7年(1579年)政宗が13歳の時、三春城主・田村清顕(たむら きよあき)の娘・愛姫(めごひめ)を正室に迎え、天正9年(1581年)4月には隣国の戦国大名・相馬氏との戦いで初陣を飾っています。

天正12年(1584年)10月、父・輝宗の隠居に伴い、家督を相続し17代当主となります。

この頃、小浜城主の大内定綱(おおうち さだつな)は二本松城主・畠山義継(はたけやま よしつぐ)と手を組み、田村氏の支配から離脱していました。

大内氏は蘆名氏(あしなし)に支援を求め、田村氏は伊達氏に支援を求めていました。

蘆名氏と伊達氏は大内氏と田村氏の和睦の仲介にあたろうとしますが不成立になり、その結果、今まで蘆名氏と同盟を結んでいた伊達氏も関係が崩れます。

天正13年(1585年)5月に政宗は蘆名領を攻めると、8月には大内領の小手森城へ攻め、見せしめとして城中の者を皆殺しにしました。

大内定綱の没落を見た畠山義継は和議を申し出て、輝宗のとりなしによって二本松領を安堵されますが、礼に来ていた義継に輝宗は拉致されてしまい、これを追跡した政宗によって、輝宗もろとも義継を殺害します。

輝宗の法要をすませた政宗は、弔い合戦と称し二本松城を包囲し、11月17日、二本松城を救援に来た佐竹氏率いる約3万の南奥州連合軍と人取橋で激突します。

数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、政宗自身も危機的状況に陥りますが、家臣の必死の防戦によって退却に成功し、翌日佐竹軍の撤兵により窮地を脱します。(人取橋の戦い)

天正14年(1586年)4月、政宗は自ら出馬して二本松城を包囲します。

畠山氏は義継の子国王丸(くにおうまる)をたてて、必死に抵抗しますが、7月に相馬義胤(そうま よしたね)の仲介で伊達氏と蘆名氏との間に和議が結ばれ、国王丸は二本松城を明け渡して蘆名氏の元に亡命することとなり二本松氏は事実上滅亡します。

その後、政宗は、佐竹氏や他の南奥州諸侯と和議を進め、一旦は平和を回復します。

ところが、11月に蘆名亀若丸(あしな かめわかまる)がわずか3歳で急死すると、佐竹義重(さたけ よししげ)が自分の子・義広(よしひろ)蘆名氏の当主に擁立します。

自分の弟である小次郎を蘆名氏に送り込もうとしていた政宗には義重から何の通告もなかったため、佐竹氏との対決を決意します。

天正15年(1587年)12月、関白・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は関東・奥州の諸大名に惣無事令(私戦禁止令)を出しますが、政宗は無視して戦争を続行します。

天正16年(1588年)2月北方の大崎氏家中の内紛に介入して兵を進行させますが、黒川晴氏(くろかわ はるうじ)の離反と大崎方の頑強な抵抗にあい敗北します。

さらに政宗への反感を強めていた伯父の最上義光(もがみ よしあき)が義光の義兄の大崎側にたって参戦したため、伊達領の各地が最上勢に攻め落とされました。(大崎合戦)

時を同じくして、大崎合戦に乗じ伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻し苗代田城を落としてしまいます。(郡山合戦)

この危機的状況の中で、南方戦線においては伊達成実(だて しげざね)による大内定綱の調略が成功し、一方、北方戦線では5月に最上氏との間に割って入った母・義姫の懇願により停戦し立て直しが行われました。

7月に最上氏及び蘆名氏との和議が成立し、窮地を脱し、愛姫の実家田村氏領の確保に成功します(田村仕置)。

9月には秀吉に恭順を示し、秀吉は天正17年前半の上洛を求めます。

天正17年(1589年)2月26日、政宗は落馬で左足を骨折し療養に入りますが、4月に岩城常隆(いわき つねたか)が隙をついて田村領に侵攻を開始し、相馬義胤も呼応します。

怪我を治した政宗は5月になってようやく出陣するが、蘆名方の片平親綱(かたひら ちかつな・大内定綱の弟)が政宗に帰順したと知ると、方向を一転し会津方面に向かいます。

5月から6月にかけて会津の蘆名義広と争い、磐梯山ばんだいさん)麓の摺上原(すりあげはら)で破ります。(摺上原の戦い)

敗れた義広は黒川城を放棄し、実家の佐竹家に逃れ、戦国大名としての蘆名氏は滅亡しました。

この頃になると、惣無事令を遵守して奥州の介入に及び腰になっていた佐竹氏側から結城義親(ゆうき よしちか)石川昭光(いしかわ あきみつ)・岩城常隆らが次々と伊達方に服属し、なおも抵抗を続けていた二階堂氏(にかいどうし)などは政宗に滅ばされました。

この時政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の置賜地方、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築きます。

それに加え白河結城氏ら南陸奥の諸豪族や、大崎氏・葛西氏も政宗の支配下にありました。

豊臣氏へ服属

天正17年11月、後北条氏が真田領へ侵攻したことをきっかけとして豊臣氏により征伐が行われることとなりました。

伊達氏は父・輝宗の頃より後北条氏と同盟関係にあり、秀吉と戦うか小田原に参陣するかで直前まで迷っていました。

天正18年(1590年)5月に豊臣配下の浅野長政(あさの ながまさ)から小田原参陣を催促され、ようやく小田原に参陣しました。

政宗が秀吉に服属してから間もなく、北条氏政(ほうじょう うじまさ)氏直(うじなお)親子は秀吉に降伏し、秀吉は宇都宮城で奥州仕置きを行っています。

ここに秀吉の日本統一が達成され、政宗は会津領を没収され72万石に減封となりました。・・・①

天正19年(1591年)には蒲生氏郷(がもう うじさと)と共に葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を扇動していたことが露見します。

これが秀吉の耳に入り、喚問された政宗は上洛し弁明して赦されるが、本拠地の6郡を失う代わりに一揆で荒廃した葛西・大崎の13郡を与えられ、米沢城72万石から岩手沢城(後の岩手山城)58万石へと転封されています。・・・②

文禄2年(1593年)には秀吉の文禄の役に従軍します。

この時、政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に豪華絢爛なもので、巷間の噂となります。

これ以来、派手な装いを好み着こなす人を指し「伊達者」と呼ぶようになりました。

政宗は秀吉に服属するようにはなりましたが、後北条氏と同盟し秀吉と対立し、ほぼ最後に服属した大名だったため、豊臣政権では重く用いられることはありませんでした。

文禄4年(1595年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)が切腹します。

政宗にも謀反の関与が疑われ、伊予の国(愛媛県)への転封を命じられそうになりますが、何とか赦免されます。

徳川家康への接近

秀吉の死後、政宗と五大老・徳川家康(とくがわ いえやす)は天下人であった秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)と家康の6男・松平忠輝(まつだいら ただてる)を婚約させます。

慶長5年(1600年)家康が会津の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)討伐の軍を発するとこれに従い、7月25日には白石城を奪還します。

家康が畿内を離れた隙をついて、五奉行の石田三成(いしだ みつなり)毛利輝元(もうり てるもと)を総大将として家康に対し挙兵してきたため、家康は西へ引き返します。

翌月、家康は政宗に対し岩出山転封時に没収され、上杉領になっていた旧領6郡49万石の領土の自力回復を許す書状を出しています。これが百万石のお墨付きと言われるもので、これを与えることによって政宗を対上杉戦に集中させようとするものでした。

9月に関ヶ原の戦いが勃発すると、西軍の上杉家重臣・直江兼続(なおえ かねつぐ)率いる軍が東軍・最上氏の領土へ侵攻すると、東軍に属した政宗は、最上氏からの救援要請を受け、叔父・伊達政景(だて まさかげ)を派遣し、9月25日には茂庭綱元(もば つなもと)が上杉領の苅田郡湯原城を攻略します。

関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わり、直江兼続もまた最上義光に敗れて米沢に逃げ帰ると、政宗は自ら兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため南進し、10月6日に福島城主・本庄繁長(ほんじょう しげなが)の軍勢と衝突します。

しかし、福島城包囲戦では繁長の堅い守りに阻まれて攻城に失敗、さらに上杉軍の別働隊に補給線を断たれたため、翌日には北目城に撤退します。

この後、翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵しましたが、結局は緒戦の失敗を取り戻せず、旧領6郡のうち奪還出来たのは陸奥の国苅田郡の2万石のみでした。

加えて、政宗が南部領内で発生した一揆を扇動し、一揆を支援するため南部領に兵を侵攻させたことが発覚します。

この一件は最終的には不問に付されたものの、政宗が希望した恩賞の追加はことごとく却下され、領地は60万石となりました。・・・③

関ケ原の戦いの後、徳川家康の許可を得た政宗は慶長6年(1601年)居城を仙台に移し城と城下町の建設を始め、仙台藩が誕生しました。

政宗は徳川幕府から松平の名字を与えられ「松平陸奥守」と称します。

大坂の陣~晩年

慶長19年(1614年)の大坂の陣に参加し大和口方面軍として布陣します。

和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたり、その年の12月、将軍秀忠(ひでただ)より伊予の国宇和郡に領地を賜ります。

翌年、慶長20年の大坂夏の陣では、道明口の戦いで後藤基次(ごとう もとつぐ)らと戦いました。

道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(さなだ のぶしげ・幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされます。

戦後の論功行賞では伊予の国の内で10万石が政宗の庶長子である伊達秀宗(だて ひでむね)に与えられています。

世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀(ていざんぼり)と呼ばれる運河を整備します。

北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とし、この結果、仙台藩は表高62万石に対し、内高74万5千石相当(寛永惣検地)の農業生産高を確保しました。

文化的には上方の文化を積極的に導入し、国宝の大崎八幡宮・瑞巌寺(ずいがんじ)・鹽竈神社(しおがまじんじゃ)・陸奥国分寺薬師堂を残しています。

  
大崎八幡宮          瑞巌寺            鹽竈神社

政宗は2代将軍秀忠、3代将軍家光(いえみつ)の頃まで仕えました。

寛永12年に家光が参勤交代制を発布し、「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなりました。

家光の治世になると、実際に戦場を駆け巡っていた武将大名はほとんどが死去していた中、政宗は高齢になっても江戸参府を欠かさず忠勤に励んだ事から、家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んで慕っており、時に家光に乞われて秀吉や家康との思い出や合戦の事など、戦国時代の昔話をしたといいます。

健康に気を使う政宗でしたが、寛永11年(1634年)頃から食欲不振や嚥下に難を抱えるといった体調不良を訴え始めていました。

寛永13年(1636年)4月18日、母義姫を弔う保春院の落慶式を終えた後、城下を散策した政宗は経ヶ峰に杖を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言います。ここが後の瑞鳳殿(ずいほうでん)です。

                 瑞鳳殿

2日後の20日に参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ、宿泊した郡山では嚥下困難に嘔吐が伴い何も食べられなくなっていました。

28日に江戸に入った頃には絶食状態が続いた上、腹に腫れが生じていました。

病をおして参府した政宗に家光は、5月21日に伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞います。

その際、政宗は行水して身を整え、家光を迎えます。

しかしお目見え後に奥へ戻る時には杖を頼りに何度も休みながら進まざるをえませんでした。

寛永13年5月24日(1636年6月27日)卯の刻(午前6時)死去。享年70

「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったといいます。

遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻りました。

「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられています。

将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発します。これは御三家以外で異例のことでした。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

超ビジュアル!歴史人物伝伊達政宗 天下に迫った奥州の独眼竜 [ 矢部健太郎 ]
価格:1188円(税込、送料無料) (2019/8/3時点)

楽天で購入

 

The following two tabs change content below.

スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
広告

コメント

タイトルとURLをコピーしました