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今日は何の日?
1709年(宝永6年)1月10日は徳川綱吉の命日です。
徳川綱吉(とくがわ つなよし)とは?
徳川綱吉
1648年(正保3年)1月8日、3代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ)の4男として江戸城で生まれます。幼名は徳松(とくまつ)。
1641年4月に家光が死去すると、長兄の家綱(いえつな)が4代将軍となります。
1653年(承応2年)家綱が右大臣になると、三兄の長松(ちょうまつ)と共に元服し、家綱から名前の一字を頂き、それぞれ綱重(つなしげ)、綱吉と名乗りました。
1661年(寛文元年)8月、上野国(こうずけのくに 群馬県)舘林藩主となり25万石の大名となります。
将軍職拝命
1680年(延宝8年)5月、子供のいなかった家綱が亡くなります。
綱重はすでに亡くなっていたため、綱吉が家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、将軍宣旨を受けました。
この時、家重時代の大老だった酒井忠清(さかい ただきよ)は皇族から宮将軍を擁立しようと画策したそうです。
これは失敗しますが、綱吉はこのことで忠清を根に持っており、病気を理由に大老職を解任しました。
そして、忠清が死ぬと死因を疑い、酒井家を改易(取り潰し)しようと墓まで掘り起こそうとした徹底ぶりだったようです。
続いて大老になったのは、綱吉の将軍就任に功績のあった堀田正俊(ほった まさとし)です。所謂、論功行賞ですね。
綱吉の治世、前半
綱吉は家綱時代に処分が確定していた越後騒動、越後国(えちごのくに 新潟県)高田藩の家督承継問題を裁定しなおしたり、諸藩の政治の監査をするなど積極的な政治に乗り出し、家綱時代に下がった権威の向上を目指します。
その為多くの藩が取り潰されたり、転封され、旗本や御家人も多くが処罰されています。
また、幕府の会計監査のため、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)を設置し、荻原重秀(おぎわら しげひで)らの有能な小身旗本や、一部の外様大名を幕閣に登用しています。
綱吉は戦国の気風を排除し、徳を重んじる文治政治を推進しています。
父・家光に儒学を叩き込まれたことに影響を受けており、林信篤(はやし のぶあつ 有名な儒学者)を召し出して経書の討論を行い、幕臣に四書や易経を講義しています。
また、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど、学問好きな将軍でした。
儒学の影響で歴代将軍の中でも尊王心が厚く、御料(皇室領)を増額したり、大和国(やまとのくに 奈良県)や河内国(かわちのくに 大阪府東部)一体の天皇・皇族の墓を調査し、必要なものには巨額な費用をかけ修復しています。
他にも公家たちの所領を倍増させています。
綱吉の儒学を儒学を重んじる姿勢は、新井白石(あらい はくせき)・室 鳩巣(むろ きゅうそう)・荻生徂徠(おぎゅう そらい)・雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう)・山鹿素行(やまが そこう)らの学者を輩出するきっかけにもなり、儒学が隆盛を極めます。
このように綱吉前半の治世は善政として、天和の治と言われています。これは、8代将軍の吉宗(よしむね)の政治に影響を与えました。
なぜ綱吉のイメージがわるい?
これだけの善政を敷きながらイメージが悪いのは様々な理由があります。
①当時、飢饉や地震、浅間山の噴火、富士山の噴火など多くの天変地異が起こった。
これは綱吉の責任ではありません。しかし、当時、天変地異が起こるのは君主に徳がないと思われていたようです。
②荻原重秀を登用して、貨幣の鋳造を行わせますが、質の悪い貨幣が出回り、経済が混乱したから。
これは新井白石にも非難されてます。
③忠臣蔵で有名な赤穂事件で、赤穂藩藩主・浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)が吉良上野介(きら こうずけのすけ)に切りかかったのを、許さず、即刻切腹させた。
あまりにも片手落ちな裁決で浅野側に同情が集まってます。
但し、綱吉からすると、天皇の使いを迎える日に「こんな事件を起こしやがって (怒)」という怒りもあったでしょうね。
④当時、悪法と言われる生類憐みの令を出したこと。
綱吉の代ではこれが有名ですね。
綱吉からすると儒教の精神に基づき、「生き物は大切にしよう」と言いたかったのでしょうが、対象が捨て子・高齢者・病人だけでなく、犬・猫・鳥類・魚類・貝類・昆虫類まで含まれていました。
犬などを粗末に扱うと、重い刑が待ってました。これはやりすぎでしたね。
因みに犬を大切にしたのは、綱吉の生まれが戌年だからだと言われています。(綱吉は犬公方とも呼ばれています。)
これに反発した徳川光圀(とくがわ みつくに)は犬の毛皮を綱吉に送ったとの逸話があります。
そういえば、綱吉はドラマの水戸黄門でも、光圀に比べ悪者のような扱いを受けていましたね。
綱吉の治世、後半
1684年(貞享元年)堀田正俊が若年寄の稲葉正休(いなば まさやす)に切られてしまいます。
正休もその場で惨殺されますが、正俊は剛直な性格だったようで、綱吉やその側近にも疎まれており、切った正休に対して同情が多かったようで驚きです。
正俊が亡くなると、綱吉は大老を置かず、老中たちも退け、側用人の牧野成貞(まきの なりさだ)や柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)らを重用するようになります。
綱吉の気持ちもわかりますが、歴史的に見て側近を登用すると争いの種になってますね。
そして、綱吉の代にも将軍継承問題が起こりました。
綱吉の子・徳松は早世していた為、候補に綱吉の娘婿・徳川綱教(とくがわ つなのり)が挙がりますが、徳川光圀の反対にあったそうです。
その為、兄・綱重の子・綱豊(つなとよ 後の家宣 いえのぶ)を養子にすることで決定しました。
1709年(宝永6年)1月10日、成人麻疹(ましん)により死去します。享年64
綱吉の墓所、寛永寺
七五三の始まりは綱吉だった?!
日本の年中行事の七五三ですが、始まりは綱吉が嫡子・徳松(とくまつ)の健康を願い、始めたのが最初らしいです。(綱吉も幼名は徳松でしたね。紛らわしい。)
しかし、その甲斐もなく、徳松は5歳で亡くなっています。
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スマイリー
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コメント
実は徳を重んじた穏やかな治世を目指していたけど、だけど悪い事件や出来事が重なった間の悪い人でもあったんですね!
生類憐れみの令だけでも十分にインパクトがあるのに…
ほりほりさん ありがとうございます。
どうやらそのようですね。教科書でならったことや、固定観念が覆された気がしました。
運に恵まれていたら、名君と言われてたかもしれませんね。