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今日は何の日?
1391年12月19日 山名氏清・満幸が室町幕府に反乱を起こす。(明徳の乱)
反乱に至るまで
そもそも、山名氏ってこの乱が起こるまではあまり聞かなかった大名ではないですかね?
僕もあまりよく知りませんでした。
山名氏はあの新田氏の一族です。つまり源氏の流れですね。
鎌倉時代後期、新田義貞(にった よしさだ)らが鎌倉を攻めますが、僕の読んだ「太平記」では山名氏の名は出てきませんでした。
それもそのはず、山名氏は一族の新田氏にではなく、足利氏に従っていたようです。
室町幕府が出来た時も、一部の時期を除き幕府側におり、新田氏と共に戦わなかったのが不思議でした。
その時の山名氏の惣領は山名時氏(やまな ときうじ)と言う人物で、足利尊氏(あしかが たかうじ)・直義(ただよし)兄弟の母が上杉清子(うえすぎ きよこ)であり、上杉氏は足利氏の家臣であります。
その上杉清子と時氏の母が従姉妹の関係にあった縁で足利氏と繋がっていました。(一族より姻戚関係を重視したわけですね、納得です)
そして戦功を重ね、山陰地方を中心に力を張り、因幡(いなば 鳥取県東部)・伯耆(ほうき 鳥取県中西部)・丹波(たんば 京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)・丹後(たんご 京都府北部)・美作(みまさか 岡山県北東部)の5ヶ国の守護となりました。
時氏の死後も山名氏は領国を拡大し、惣領を継いだ長男の師義(もろよし)は丹後・伯耆、次男の義理(よしただ)は紀伊(きい 和歌山県 三重県南部)、三男の氏冬(うじふゆ)は因幡、4男の氏清(うじきよ)は丹波・山城(やましろ 京都府南部)和泉(いずみ 大阪府南西部)5男の時義(ときよし)は美作・但馬(たじま 兵庫県北部)・備後(広島県東半分)の守護となります。
しかも、師義の3男の満幸(みつゆき)まで播磨(はりま 兵庫県南西部)の守護職を得ています。
山名氏だけで11ヶ国、これは全国66ヶ国の六分の一を占め、「六分の一殿」と言われた所以です。
元々、足利幕府は守護大名の連合の上に成り立っており、基盤が脆弱でした。
ときの3代将軍・足利義満(あしかが よしみつ)は将軍の権力強化を図ります。
まず、天授5年/康暦元年(1379年)、康暦の政変(こうりゃくのせいへん)で幕府の実権を握っていた管領の細川頼之(ほそかわ よりゆき)が失脚すると、斯波義将(しば よしまさ)が新管領に就任します。
義満は細川氏と斯波氏の対立を利用し、自己の権限を強化し、直轄軍である奉公衆(ほうこうしゅう)を増強します。
そして、他大名の力を削ぐ政策をとります。
最初のターゲットは土岐氏でした。
元中4年/嘉慶元年(1387年)幕府創業の功臣であり、美濃(みの 岐阜県南部)・尾張(おわり 愛知県西部)・伊勢(いせ 三重県北中部 愛知県の一部 岐阜県の一部)の守護・土岐頼康(とき よりやす)が死去します。
甥の康行(やすゆき)が跡を継ぎますが、義満は土岐氏一族が分裂するように、康行を挑発し挙兵に追い込みます。
そして、康行討伐の命令を出し、明徳元年/元中7年(1390年)討伐します。(土岐康行の乱)
これにより土岐氏は美濃1ヶ国となりました。
次に狙われたのが山名氏でした。
山名氏内紛
山名師義が天授2年/永和2年(1376年)に死去すると、4人の息子・義幸(よしゆき)・氏之(うじゆき)義煕(よしひろ)・満幸は若年であった為、中継ぎ役として時義が惣領を継ぎました。
なぜ、氏清を飛ばして時義となったのか不思議ですが、当然、氏清とその婿であった満幸は不満を示します。
そして、時義が元中6年/康応元年(1389年)の死去すると、惣領と但馬・備後の守護職はその息子の時煕(ときひろ)に、伯耆の守護は時義の養子になっていた、時煕の義兄弟の氏之に与えられてしまいます。
病弱だった義幸の代官として幕府に出仕していた満幸にとって、この件でも自分が無視されたとして不満を増大していきます。
義幸は永徳元年/弘和元年(1381年)病を理由に丹後・出雲(いずも 島根県東部)・隠岐(おき 島根県隠岐郡)の守護を辞任しており、満幸が3ヶ国を継承していました。
家臣団の中でも以前から登用されていた者と、新しく登用された者とで派閥に分かれて争うようになり、それが一族の内紛に拍車をかけていきます。
明徳元年/元中7年3月、義満は時義が生前将軍に対して不遜であり、時煕と氏之にも不遜な態度が目立つとして氏清と満幸に討伐を命じます。(同族であり、兄弟・叔父・甥同士で争わせるところに義満のしたたかさを感じますね)
時煕と氏之は挙兵して戦いますが、氏清が時煕の本拠・但馬を、満幸が氏之の本拠・伯耆を攻め、2人は敗れて没落します。
氏清・満幸の挙兵
山名氏は分裂し時煕と氏之は追放されますが、戦功として、氏清には但馬と山城が、満幸には伯耆の守護職が与えられたため、2人に力が集中しただけでした。
この為、義満は氏清と満幸に対し、挑発を行っていきます。
元中8年/明徳2年(1391年)、逃亡していた時煕と氏之が京都に戻り、義満に赦免を嘆願し、義満がこれを赦そうとしているという噂が広がります。
不安になった氏清は、同年10月の義満を招いての宇治での紅葉狩りを、直前になって病を理由に中止してしまい義満の不興を買います。
同年11月には、満幸の分国・出雲で後円融上皇(ごえんゆうじょうこう)の御料である仙洞領横田荘を押領して、御教書(みぎょうしょ)にも従わなかったとして、満幸は出雲の守護職を剥奪され京都から追放されます。
怒った満幸は舅の氏清の分国和泉の堺に赴き、「昨今の将軍のやり方は、山名氏を滅ぼすつもりである」と挙兵を説きます。
氏清もこれに同意し、京都に攻め寄せることを決意します。
満幸を分国の丹波へ帰国させて丹波路から京へ攻め寄せる準備をさせると、氏清は堺で兵を集めると共に、兄で紀伊守護の義理を訪ねて挙兵を説きます。
義理は躊躇しますが、遂に同意します。
氏清は大義名分を得るため南朝に降り、錦の御旗を下賜されます。(これにより官軍になったという事です)
12月19日、幕府に氏清・満幸の謀反の報告が丹後と河内の代官から届けられますが、幕府重臣たちは半信半疑でした。
しかし、氏清の甥の氏家(うじいえ 因幡守護・氏冬の子)が一族と合流するべく京都を退去すると、重臣たちも謀反を悟ります。
12月25日、義満は軍評定を開きますが、重臣たちの間では和解論がせん出ます。
なぜなら、山名氏の力は強大であり、時氏の時代にも2度京都を占領していたからです。
しかし、義満は和解論を退け、決戦を決めます。
内野合戦
幕府軍は京へ侵攻する山名軍を迎え撃つべく主力5000騎を旧平安京の大内裏である内野に置き、義満と馬廻(奉公衆)5000騎は堀川の一色邸で待機します。
山名軍は決戦を12月27日と定め、氏清の軍勢3000騎は堺から、満幸の軍勢2000騎は丹波から京都へ進軍します。
丹波路を進む満幸の軍勢は、26日に内裏から三里の峯の堂に布陣します。
しかし、氏清は、河内守護代に阻まれて到着が遅れた上に、軍勢の中からは脱落して幕府方に降参する者も出始めます。
12月29日夜、到着が遅れた氏清の軍勢は淀の中島に至り、3隊に分かれて京に進撃し、満幸の軍勢は2手に分かれて京に攻めかけます。
この時は闇夜の進軍だった為連携が取れず、各個に京へ突入することとなりました。
12月30日早朝、氏清の弟ら700騎が二条大宮に攻め寄せて、大内義弘(おおうち よしひろ)の300騎と激突して合戦が始まります。
大内勢に矢を雨のように射かけられ、劣勢になった山名勢は討ち死にを覚悟で突撃し、緒戦で敗れてしまいます。
次いで、満幸の軍勢2000騎が内野へ突入し、守る幕府軍は細川頼之・頼元(よりもと)兄弟、畠山基国(はたけやま もとくに)、京極高詮(きょうごく たかのり)の3000騎で激戦となりますが、義満の馬廻5000騎が投入されると勝敗は決し、敗れた満幸は丹波へ落ちのびます。
氏清の軍勢2000騎は二手に分かれて突入し、大内義弘・赤松義則(あかまつ よしのり)の軍勢と衝突します。
氏清は奮戦して大内、赤松の軍勢を撃退します。
また、幕府に帰参していた山名時熙が50騎を率いて参戦し、8騎に討ち減らされるまで戦い抜きます。
劣勢になった大内・赤松は義満に援軍を要請し、一色氏・斯波義重(しば よししげ)の軍勢が加勢すると幕府軍は盛り返します。
ついに、氏清の軍勢は浮き足立ち、義満自らが馬廻とともに出馬すると潰走しました。
氏清は落ち延びようとしますが、一色勢に取り囲まれて一色詮範(いっしき あきのり)・満範(みつのり)父子に討ち取られました。
戦後処理
明徳3年/元中9年(1392年)正月、論功行賞が行われ、山城は畠山基国、丹波は細川頼元、丹後は一色満範、美作は赤松義則、和泉・紀伊は大内義弘、但馬は山名時熙、因幡は山名氏家、伯耆は山名氏之、隠岐・出雲は京極高詮にそれぞれ与えられます。
山名氏家だけは反乱に加わりますが、降伏し赦されています。
そして、11ヶ国の領国を誇った山名氏は僅か3ヶ国に減らされます。
同年2月には、山名義理が紀伊で大内義弘に攻められて没落します。
応永2年(1395年)、剃髪して僧になり、九州の筑紫(つくし)まで落ち延びていた満幸も捕まり、京で斬られました。
その後、明徳の和約で南北朝を合一した義満は、戦功のあった第3のターゲットである大内義弘を滅ぼし(応永の乱)将軍権力を固めていくことになります。
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