幼少期を竹中半兵衛に命を救われ、福岡藩の初代藩主となれた黒田長政

今日は何の日?
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8月4日の今日は何の日?

元和9年8月4日(1623年8月29日)黒田長政 没 56歳

黒田長政(くろだ ながまさ)って?

                   黒田長政

黒田官兵衛孝高(くろだ かんべえ よしたか)の嫡男として永禄11年12月3日(1568年12月21日)に播磨国(はりまのくに 今の兵庫県)姫路城で生まれます。

幼名は松寿丸(しょうじゅまる)

人質の幼年時代

当時の黒田氏は御着城主・小寺氏の家老を務めていたので、小寺吉兵衛とも呼ばれています。

父・孝高は織田信長(おだ のぶなが)に臣従し、羽柴秀吉(はしば ひでよし)に従ったため、松寿丸は秀吉の元に人質に出されます。

しかし、松寿丸は秀吉の居城長浜城で秀吉・おね夫婦に我が子のように可愛がられたようです。

そんな松寿丸に危機が訪れます。

天正6年(1578年)信長に従っていた荒木村重(あらき むらしげ)が反旗を翻します。(有岡城の戦い)

村重と懇意だった孝高は、村重を説得するために有岡城に乗り込みますが、失敗し逆に拘束されてしまいます。

いつまでたっても戻らない孝高を信長は寝返ったと疑い、松寿丸は処刑されることになります。

その時助けてくれたのが、父の同僚であり、孝高と共に二兵衛と評されていた竹中半兵衛重治(たけなか はんべえ しげはる)です。

重治は松寿丸を密かに自らの居城に引き取って、家臣の屋敷に匿い、信長には処刑したと虚偽の報告をして機転を利かせました。

有岡城の陥落後、父・孝高は救い出され、疑念が晴れた為、松寿丸も姫路へ帰郷できました。

その縁からからか重治の息子の重門(しげかど)は将来、関ヶ原の戦いで黒田軍に合力して戦っています。

羽柴氏の家臣時代

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が自刃すると、父と共に秀吉に仕え、秀吉の備中高松城攻めに従い毛利家との戦いで初陣を飾っています。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかいでも功をあげ、初めて河内国(かわちのくに 今の大阪府)に450石の領地を与えられました。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)では大阪城の留守居を務め、長曾我部(ちょうそかべ)水軍と戦っています。

この功績により、2000石を加増されました。

天正15年(1587年)の九州平定では日向(ひゅうが 今の宮崎県)財部城(たからべじょう。高鍋城)では功をあげ、戦後父子の功績と合わせ、孝高に豊前(ぶぜん 今の大分県)中津・125,000石が与えれれています。

しかし豊前国の国人衆は従わず、その中の有力領主の一人・城井鎮房(きい しげふさ)が秀吉の出陣要請に対し、自身は病気と称して出陣せず、息子の城井朝房(きい ともふさ)に僅かな兵をつけて参陣させた為、秀吉は不信を抱きます。

九州平定後、鎮房には伊予国(いよのくに 現在の愛媛県)へ移封を命じますが、先祖伝来の地に固執して拒否し秀吉の怒りを買いました。

この為、長政は穏便に事を修めることが不可能と悟り、鎮房の城井谷を攻撃します。

地の利のある鎮房のゲリラ戦術には苦労しますが、持久戦をとり、他の国人勢力を各個撃破して下したことにより、形勢は逆転します。

鎮房は12月下旬に、13歳になる娘・鶴姫を人質に差し出すことで和議を申し出て、それが受け入れられて鎮房は恭順を誓います。

しかしそれは秀吉の承認を得ることができず、承認を得ることができないと知った長政は城井一族討伐を決心します。

天正16年4月20日(1588年5月15日)長政は鎮房を中津城に招き、僅かな供と中津城に入った鎮房は酒宴の席で謀殺されます。

さらに黒田勢は城井谷城に攻め寄せ、陥落させ、鎮房の父・城井長房(きい ながふさ)を殺害します。

また、鎮房の嫡男・城井朝房は孝高に従い一揆鎮圧のために出陣していましたが、肥後国(ひごのくに 現在の熊本県)で孝高に暗殺されます。

こうして城井氏の殲滅に成功した長政は、人質の鶴姫を侍女と共に磔にして処刑しました。

天正17年(1589年)父・孝高が隠居すると、家督相続を許され、同時に従五位の下・甲斐守(じゅごいのげ・かいのかみ)に叙任します。

文禄元年(1592年)から行われた文禄・慶長の役では兵5,000人を率いて渡海し、主将として三番隊を率い、一番隊の小西行長(こにし ゆきなが)、二番隊の加藤清正(かとう きよまさ)らと先鋒となります。

5月7日に漢城に到達すると、一番隊と共に朝鮮王を追い開城を攻略します。

6月15日の大同江の戦い(だいどうこうのたたかい)では、朝鮮軍の夜襲を受け苦戦していた宗義智(そう よしとし)の軍を救援し、長政は負傷するも大いに奮戦し朝鮮軍を破ります。

6月16日敗退した朝鮮軍が放棄した平壌城を占領します。

6月下旬には黄海道の制圧に戻り、7月7日には海州を攻略しました。

8月初旬、明の援軍を警戒して戦線を縮小し、主要街道を固め、延安城を攻撃を行いますが、落とすことが出来ず、以後黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある白川城・江陰城を守ります。

文禄2年(1593年)正月明の大軍が小西行長らの守る平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政は白川城に収用します。

漢城に集中した日本軍は、碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)で南下してきた明軍を撃破し、戦意を失った明軍と兵糧不足に悩む日本軍との戦いが停滞する中で、長政は幸州山城の戦いにも出陣しました。

和平交渉が進み、日本軍は4月に漢城を放棄して朝鮮半島南部に布陣を行います。

6月には朝鮮南部の拠点である晋州城を攻略し(第二次晋州城攻防戦)長政配下の後藤基次(ごとう もとつぐ)が先陣争いで活躍しました。

その後の南部布陣期の長政は機張城を守備しています。

慶長元年(1596年)9月に日明和平交渉は大詰めを迎え、秀吉による明使謁見で双方の外交担当者による欺瞞が発覚して交渉が破綻すると秀吉は諸将に再出兵を命じます。

慶長2年(1597年)7月朝鮮水軍による攻撃があり、反撃により漆川梁開戦(しっせんりょうかいせん)で朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は8月より主に全羅道から忠清道へ攻勢を掛けます。

長政は再度5千人の軍役を課せられ加藤清正や毛利秀元(もうり ひでもと)らと右軍を形成し黄石山城を攻略します(黄石山城の戦い)

8月に全州で左軍と合流し、全州会議に従って各軍の進路を定め、長政ら右軍は忠清道の天安へ進出しました。

日本軍の急激な侵攻を受けて、漢城では明軍が首都放棄も覚悟しますが、派遣された明将の軍と長政軍が忠清道の稷山で遭遇戦(稷山の戦い)となり、激戦の末に秀元の援軍もあり明軍を撃破し、数日間稷山に駐屯しました。

長政軍が稷山に至ると漢城では恐れ戦いた多くの人々が都から逃亡します。

占領地を広げて冬営のために布陣していた日本軍に対し、12月末から明軍が完成間近の蔚山倭城(いさんわじょう)へ攻勢をかけ(第一次蔚山城の戦い)、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破しました。

長政はこの救援軍に600人を派遣しており、後にその不活発さを秀吉から叱責されています。

慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去し、日本軍が明軍を三路の戦いで撃破すると長政ら日本軍はそのまま撤退しました。

このように長政は朝鮮では数々の武功を挙げますが、同時に石田三成(いしだ みつなり)や小西行長と対立し、関ヶ原の戦いの原因にもなります。

徳川氏へ鞍替え

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、三成ら文治派との路線対立から五大老の徳川家康(とくがわ いえやす)に接近し、三成ら文治派との路線対立から先に結婚していた蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)の娘・糸姫と離別し、家康の養女・栄姫を正室に迎えます。

慶長4年(1599年)潤3月に前田利家(まえだ としいえ)が死去すると、福島正則(ふくしま まさのり)や加藤清正ら武断派と共に石田三成を襲撃しました。

これは家康の仲介によって失敗しますが、三成も失脚してしまします。

慶長5年(1600年)に家康が会津の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)討伐(会津征伐)の兵を起こすと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦いました。

本戦における黒田長政軍の活躍は凄まじく、三成の家老・島左近(しま さこん)を討取り、さらに父親譲りの調略で親戚の平岡頼勝(ひらおか よりかつ)らを通じ、西軍の小早川秀秋(こばやかわ ひであき)吉川広家(きっかわ ひろいえ)など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの戦功により戦後、家康から御感状をを賜り、関ヶ原の戦い一番の功労者として、子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前国(ちくぜんのくに 今の福岡県)名島に52万3,000余石の大封を与えられました。

慶長6年(1601年)豊前国から筑前国に入ります。

当初入城した小早川氏の居城だった名島城は手狭で簡素な城であり、太守としては不便な土地であったことから、父・如水とともに新たな城を築城します。

堺と並ぶ商人の街・博多の那珂川を挟んだ隣接地を選び、当初は福崎といったその地を、黒田氏ゆかりの備前国(びぜんのくに 今の岡山県)故地からとって福岡と名付け、同年に着工し、慶長11年(1606年)に福岡城は7年かかって完成し、長政は初代福岡藩主となります。

               福岡城

慶長8年(1603年)朝廷より従四位の下・筑前守に叙任されます。

慶長9年(1604年)父・孝高が亡くなると、孝高はキリシタンだったため、葬儀はカトリック式と仏式で行われ、仏式では臨済宗京都大徳寺他にて大々的にとり行いました。

慶長11年(1606年)亡父・孝高の供養の為に京都の大徳寺に塔頭・龍光院(りょうこういん)を建立します。

慶長17年(1612年)に嫡男の黒田忠之(くろだ ただゆき)と共に上洛し、忠之は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ)より松平の姓を与えられます。

慶長14年(1614年)の大坂冬の陣では江戸城の留守居役を務め代理として忠之を出陣させますが、翌慶長20年(1615年)大坂夏の陣では秀忠に属して加藤義明(かとう よしあき)と共に陣を張り豊臣方と戦いました。

戦後、家臣の黒田一成(くろだ かずしげ)に命じ、当時一流の絵師を集めて自らも参陣した「大坂夏の陣図屏風」通称「黒田屏風」を描かせており、この屏風は国の重要文化財に指定されています。


大坂夏の陣図屏風

藩主となって以降、数々の産業を奨励し博多人形や博多織、高取焼などの伝統工芸の復興に力を入れ、現在に至るまで福岡の名産品となています。

元和9年(1623年)8月4日徳川家光(とくがわ いえみつ)の三代将軍宣下の先遣として、早くに上洛しますが、既に病にかかっており、京都における黒田家の位牌寺・報恩寺の客殿寝所にて56歳の生涯を終えています。

跡は忠之が継ぎますが、生前の長政は忠之の器量を心配して廃嫡を考えたことがありました。

重臣の栗山大善(くりやま だいぜん)に諫められ思いとどまり、大膳に忠之の補佐を託して亡くなりますが、心配通り後に忠之と大膳の対立が起こり、黒田騒動と言うお家騒動が起こりました。

              三大八幡宮の一つ福岡の筥崎宮

下は、頭が黒田長政の兜をデザインにしているという「ウルトラマンシリーズ」の怪獣ゴモラ

 

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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