お茶の間の人気者、水戸黄門こと水戸藩2代藩主徳川光圀の実像

今日は何の日?
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6月10日の今日は何の日?

寛永5年6月10日(1628年7月11日)徳川光圀の生誕日です。

徳川光圀(とくがわ みつくに)

              徳川光圀

人生らくありゃ♫苦もあるさ♬
徳川光圀と言えばテレビでも有名な水戸黄門の主人公ですね。

光圀は徳川家康(とくがわ いえやす)の孫で、父は初代水戸藩主の徳川頼房(とくがわ よりふさ)の3男として誕生しています。

しかも母は久子(久昌院・きゅうしょういん)で頼房の側室です。

その為家臣の三木之次(みき これつぐ)の家で出生しています。

後年の光圀が回想した「義公遺事」によると、久子はまだ正式な側室ではありませんでした。

久子は頼房の寵を得て、同母兄の頼重(よりしげ)を出産します。

しかし、このことが正式な別の側室の機嫌を損ねた為、頼房が堕胎を命じたそうです。

この時は三木之次の妻が頼房の母(英勝院・えいしょういん)と相談し、江戸の三木邸で出産しました。

因みに之次の妻は頼房の乳母であったんですね。

同様に、光圀の時も堕胎が命じられたそうですが、この時も水戸の三木邸で密かに出産しました。

そして、光圀は三木夫妻の子として育てられたと言われています。

寛永9年(1632年)には水戸城に入り、翌寛永10年(1633年)11月には世子(せいし・後継者)と決定し、翌月には江戸の小石川邸で世子教育を受けます。

普通なら兄の頼重が世子となるところでしょうが、これには3代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ)や英勝院の意向があったようです。

寛永11年には英勝院に伴われ、江戸城で家光に拝謁しています。

寛永13年(1636年)に元服し、将軍家光からの偏諱を与えられ、光圀と改めています。

この年に光圀には3人が傅役(ふやく・御守役)として付きます。

だが、少年時代の光圀の振る舞いは不良であり、光圀16~17歳の時、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求めています。

光圀が18歳の時、司馬遷(しばせん)の「史記」伯夷伝を読んで感銘を受け、行いを改めます。

承応元年(1652年)侍女との間に男児・頼常(よりつね)が誕生しますが、この子は兄・頼重が藩主である高松に送られて高松城で育てられています。

光圀は頼常が13歳の時に対面しますが、あまり親しみの様子を見せなかったそうです。

承応3年(1654年)前関白・近衛信尋(このえ のぶひろ)の娘・泰姫(たいひめ)と結婚しています。

明暦3年(1657年)駒込邸に史局を設置して、歴史書の「大日本史」の編纂作業に着手します。

万治元年(1658年)うるう12月23日妻の泰姫が21歳で亡くなると、以後は正室を持ちませんでした。

藩主時代

寛文元年(1661年)7月父・頼房が水戸城で死去し、瑞竜山に葬られます。

光圀は当時の慣習だった殉死を禁止し、殉死の噂のある家臣宅をまわり、殉死をやめさせたと言われています。

8月19日幕府の上使を受け、水戸藩28万石の2代藩主となりました。

寛文3年(1663年)12月に兄・頼重の子・綱方(つなかた)を養子に迎え、翌寛文4年(1664年)2月、光圀の実子・頼常が頼重の養子となります。

(自分たちの子を互いに養子として交換した形ですかね)

更に寛文5年には頼重の次男・綱條(つなえだ)が水戸家に移り、綱方死後の寛文11年(1671年)に光圀の養子となります。

また、弟たちにも所領を分け与えています。

光圀の事業

藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行・望月に水道設置を命じます。

その頃の水戸下町は湿地帯であったために井戸水が濁り、住民は飲料水に不自由していました。

望月は笠原不動谷の湧水を水源と定め、笠原から細谷まで全長約10kmを埋設した岩樋でつなぐ笠原水道を着工します。

約1年半で完成し、笠原水道は回収を重ね、明治時代に近代的な水道が整備されるまで利用されました。

寛文3年(1663年)には領内の寺社改革に乗り出し、村単位に「開基帳」の作成を命じます。

寛文5年(1665年)に寺社奉行2人を任じ、翌年寺社の破却・移転などを断行します。

神社については、社僧を別院に住まわせるなど神仏分離を徹底させます。

一方で、由緒正しい寺院については支援・保護しています。

神社については、静神社(那珂市)吉田神社(水戸市)などの修造を助けるとともに、神主を京に派遣して、神道を学ばせています。

寛文5年(1665年)、明の遺臣・朱舜水(しゅ しゅんすい)を招きます。

朱舜水の学風は実学派であり、儒学と実学を結びつける学風は水戸藩の学風の特徴となって残りました。

延宝7年(1679年)頃、諱を光圀と改めています。

貞享から元禄の初めにかけ、建造した巨船・快風丸を使い蝦夷地探検を三度行っています。

二度目の航海は松前まででしたが、三度目は石狩まで到達し、交易して帰還します。

この公開により、水戸藩は幕末まで蝦夷地に強い関心を持つこととなります。

しかし、この巨船での公開は、光圀が藩主だあったため幕府も黙認していたようで、それ以降は行われず、光圀の死から3年目には快風丸も解体されました。

隠居時代

元禄3年(1690年)10月14日に幕府より隠居の許可が下り、養嗣子の綱條が水戸藩主を継ぎます。

翌15日には権中納言に任じられています。

元禄4年(1691年)5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲し、佐々宗淳(ささ むねあつ)以下60人が側に仕えます。

元禄5年(1692年)4月、佐々を楠木正成(くすのき まさしげ)が自刃したとされる摂津国湊川に派遣し、楠木正成を讃える墓を建造させます。(湊川神社)

湊川神社

元禄6年(1693年)から数年間、水戸藩領内において、八幡潰しと呼ばれる神社整理を行います。

神仏習合神である八幡社を整理し、神仏分離を図ったもので、藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更されました。

元禄7年(1694年)3月、5代将軍・徳川綱吉(とくがわ つなよし)の命で隠居後初めて江戸にのぼり、小石川藩邸に入ります。

1月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫(ふじい もんだゆう)を刺殺しています。

これは紋太夫が柳沢吉保(やなぎさわ よしやす・綱吉の側用人)と組んで光圀の失脚を謀ったためとも言われています。

翌元禄8年(1695年)1月、光圀は江戸を発ち、西山荘に帰ります。

72歳頃から食欲不振が目立ち始め、元禄13年12月6日(1701年1月14日)食道癌のため死去します。享年74。

神号 高譲味道根之命(たかゆずるうましみちねのみこと)

               水戸黄門神社

水戸藩の財政事情

水戸藩の財政は初代の父・頼房の藩主時代から苦しく、光圀の藩主時代後期には財政難が表面化していました。

その上、光圀が始めた大日本史の編纂は水戸藩に多大な費用をかけます

また光圀は他の御三家(尾張藩・紀伊藩)に対抗するため、当時1間=6尺3寸だったのを6尺に改め、28万石だった水戸藩を見かけ上36万9千石にします。

この石高が次代の綱條の代に幕府に認められることとなり、これが大日本史編纂事業とあいまって水戸藩困窮の要因となりました。

光圀の学芸振興は水戸学を生み出し、後世に多大な影響を与えますが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えませんでした

光圀は藩士の俸禄の借り上げ(給料削減)を行っているが、大きな効果は上がらず、光圀の養子・綱條も財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆が起こり、改革は失敗します。

その後も水戸藩にとって財政の立て直しは重要課題であり続け、様々な改革と幕府からの借金を繰り返すこととなります。

水戸徳川家は参勤交代を行わず、江戸におり、常に将軍の側にいたことから天下の副将軍と呼ばれるようになります。

光圀の人物像

光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っています。

餃子・チーズ・牛乳酒・黒豆納豆を初めて食べた人とされています。

光圀が食べたと言われるラーメンもあり、これを再現した水戸藩ラーメンと言うご当地ラーメンがあるそうです。

また、肉食が忌諱されていたこの時代に、徳川綱吉が制定した生類憐みの令を無視して牛肉・豚肉・羊肉を食べていました。

オランダ製の靴下を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物にも興味を示し、海外から朝鮮ニンジンやインコを取り寄せ育てています。

蝦夷地探索の為、黒人2人を雇い入れ、家臣としています。

また、明から亡命した儒学者・朱舜水を招聘し、教授を受けています。

朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作りました。

光圀はこれを後楽うどんと名付け、客人や家臣などにふるまっています。

水戸黄門は7人いた!?

元々、黄門と言うの中納言・権中納言と言う官位の唐風の名称です。

水戸藩主で中納言・権中納言に任命されたのは、頼房・光圀・綱條・治保(はるもり)・斉脩(なりのぶ)・斉昭(なりあき)・慶篤(よしあつ)の7人がおり、光圀だけを指すのではありませんね。

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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