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今日は何の日?
天文5年1月15日(1536年2月6日)は佐々成政(さっさ なりまさ)の誕生日です。
佐々氏は尾張国(おわりのくに 愛知県西部)春日井郡比良城(ひらじょう)の土豪でした。
成政は3男として誕生しますが、長兄・政次(まさつぐ)今川軍との戦いで討死、次兄・孫介(まごすけ)稲生の戦いで討死した為、永禄3年に家督を継ぎ比良城主となっています。
織田信長(おだ のぶなが)に仕えると、永禄4年(1561年)森部の戦い(織田信長VS斎藤龍興 さいとう たつおき)で稲葉又右衛門(稲葉一鉄の叔父)を討取り、功をたて、永禄10年(1567年)に黒母衣衆(くろほろしゅう)の一員に抜擢されます。
織田信長軍には黒母衣衆と赤母衣衆があり、黒母衣衆の成政も信長軍のエリートでした。
『信長公記』・『当代紀』によると、元亀元年(1570年)6月の姉川の戦い(織田信長・徳川家康 とくがわ いえやすVS浅井長政 あざい ながまさ・朝倉義景 あさくら よしかげ)に先立つ「八相山の退口」で少数の馬廻衆を率い、殿軍(しんがり)に参加し、鉄砲隊を用いて活躍しました。
天正2年(1574年)の長島一向一揆(織田信長VS本願寺顕如 ほんがんじ けんにょ)との戦いでは長男・松千代丸(まつちよまる)を失っています。
天正3年(1575年)5月の長篠の戦い(織田信長・徳川家康VS武田勝頼 たけだ かつより)では、前田利家(まえだ としいえ)野々村正成(ののむら まさなり)福富秀勝(ふくずみ ひでかつ)塙直政(ばん なおまさ)らと鉄砲隊を率いています。
同年9月、織田信長は越前国(えちぜんのくに 福井県)を制圧し、柴田勝家(しばた かついえ)を北陸方面の軍団長に任命すると、その与力・目付として前田利家・佐々成政・不破光治(ふわ みつはる)の3人(府中三人衆)に越前府中を与え、成政は小丸城を築き居城とします。
小丸城跡
府中三人衆は勝家の与力ではありましたが、独立して石山合戦や播磨国(はりまのくに 兵庫県南西部)平定、荒木村重(あらき むらしげ)征伐にも参加し、荒木一族の処刑も行っています。
天正5年(1578年)8月、能登国(のとのくに 石川県北部)に侵攻した上杉軍を攻める為、柴田勝家らと共に加賀国(かがのくに 石川県南部)に侵攻しますが、七尾城が攻め落とされた為撤退します。
天正8年からは神保長住(じんぼ ながずみ)の助勢として一向一揆・上杉軍の最前線である越中国(えっちゅうのくに 富山県)の平定に関わります。
天正9年(1581年)2月、正式に越中の半国を与えられ、翌年、長住が失脚したことで越中国1国の守護となり富山城を回収して居城とし大規模な改修を行います。
天正10年(1582年)6月に本能寺の変が発生すると、成政の属する北陸方面軍は上杉方の魚津城を攻略したばかりで、各将が領地に引き上げた為、成政は防戦で身動きが取れなくなります。
その為、羽柴秀吉(はしば ひでよし)の明智光秀(あけち みつひで)討伐に遅れを取ってしまいます。
明智討伐後の清須会議では、勝家と秀吉との織田家の実権争いが表面化し、成政は勝家方につきます。
賤ヶ岳の戦い(羽柴 秀吉VS柴田勝家)が起こると、成政は上杉景勝(うえすぎ かげかつ)への備えの為、越中を離れられず、叔父に兵600の援軍をつけ送るにとどまります。
勝家軍で前田利家の寝返りもあり、勝家が敗れると、娘を人質に出し剃髪することで秀吉に降伏し、越中1国を安堵されます。
翌天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦い(羽柴秀吉VS徳川家康・織田信雄 おだ のぶかつ)が発生すると、3月頃には秀吉方につく姿勢を見せていたものの、夏頃には家康・信雄方につき、秀吉方だった利家の末森城を攻撃します。
この時期成政は景勝とも敵対していた為、二正面作戦を強いられ苦戦します。
秀吉と信雄が講和して家康も停戦すると、成政は自ら厳冬の飛騨山脈を越え浜松に至り家康に再挙を促しますが、説得に失敗し、また信雄や滝川一益(たきがわ かずます)からも快い返事が得られませんでした。
天正13年(1585年)、秀吉自らが越中平定に乗り出すと、富山城は10万の兵に包囲され、信雄の仲介によって降伏します。
秀吉の裁定により、一命は助けられたものの、越中東部の新川郡を除く全ての領地を没収されます。
富山城も破却され、成政は在国を許されず妻子と共に大阪へ移住させられます。
以後は御伽衆(おとぎしゅう)として秀吉に仕え、天正15年(1587年)には羽柴姓を与えられます。
天正15年の九州征伐で、成政は功を上げたことを契機に肥後国(ひごのくに 熊本県)1国を与えられます。
しかし、早速検地を行おうとしたことに反発した国人が一斉に蜂起し、自力で鎮めることが出来ませんでした。
秀吉から失政の責任を受けた成政は、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)の助命嘆願も効果なく、摂津国(せっつのくに 大阪府北中部、兵庫県南東部)尼崎の法園寺で切腹させられました。享年53
比良城跡に建つ成政の墓
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