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ブログを書こうと思い、サーバーを契約して早くも1月が経ってしまいました。
勿体無くもあるので、今日から書いていきたいと思います。
今日の主人公は平将門。生年不詳~934年
(平将門 なんか僕のイメージとは違いますが)
僕も初めて大河ドラマで平将門(たいらの まさかど)を知り、歴史に興味を持つきっかけとなった武将です。
関東の方なら馴染みがあるかもしれませんが、東京千代田区大手町に首塚があります。
いきなり首塚って気持ち悪くもありますが、合戦で討取られた平将門が祀られてます。
なぜ、平将門と言う人物がこういう最後を遂げてしまったのか?
元々、将門の祖先に高望王(たかもちおう)と言う人物がいますが、この方は桓武天皇(かんむてんのう)の曾孫です。
という事は、本来なら皇族です。
残念ながら、皇族でも、力がない人達は、臣籍降下といって天皇の臣下として別の家を立てていくしかないのですね。
その中でも、桓武天皇の子孫の平氏や清和天皇の子孫である源氏は別格です。
なので、本来ならかなりのサラブレッドのはずなんですが。
この時代は藤原氏が力を持っていたので、中々中央では力を持てず地方へ下っていきました。
そして地方の有力者として根付いていきましたが、平良将(たいらの よしまさ 将門の父)は下総国(しもうさのくに 今の千葉県)に力を持っていました。
しかし、良将が亡くなると、現在なら子が相続するのが普通なのですが、その頃は叔父達に領地を取られており、子である将門らには不満があったことでしょう。
このあたりからが一族での争いが起こります。
なので、最初の始まりは中央に対する反乱でなく、単なる一族での私闘だったということです。
この戦いで伯父である平国香(たいらの くにか)を討ち、また、別の叔父である平良兼(たいらの よしかね)の勢力を撃退し、ひとまずは終結しました。
承平天慶の乱(しょうへい てんぎょうの乱)の起こり
この事件が中央政府に対する反乱となったのには、2人の人物が関係します。
まず、武蔵国(むさしのくに 今の東京)の権守(ごんのかみ 役人の位で守の次席)である興世王(おきよおう)、もう一人は常陸国(ひたちのくに 今の茨城県)の住人である藤原玄明(ふじわらの はるあき)。
興世王は役人なのですが、同僚との間で不和になり、任地である武蔵国を離れてしまいます。
また、藤原玄明という人物は常陸の国で、乱暴・狼藉を働き、役所から追手がかかっています。
この2人が頼ったのが平将門です。
特に藤原玄明はお尋ね者でもあるので、本来なら引き渡すのが筋かもしれませんが、将門は匿って引き渡しを拒否してしまった。
こうなると地方役所との争いになり、結局国に対する反乱とみなされてしまいます。
そして常陸の国の役人である藤原維幾と戦い、捕らえてしまいます。
これが承平天慶の乱の始まりです。931年11月21日。
因みに承平天慶の乱とは、同時期に関東で起こった平将門の乱と、瀬戸内海で起こった藤原純友の乱の総称です。
平将門の乱は関東では大きな反乱となり、自らも新皇と呼ぶほどの勢力を一時期は持ちましたが、最終的にはあっけなく討ち死にしてしまい、2ヶ月という短い期間で終結します。
それでも、この人の人気は高く、朝敵という謀反人にもかかわらず、1309年には神田明神に合祀されてます。
負けてしまっても、いや負けてしまったからこそ同情を得たりしたのかもしれません。
平将門を討った人物に藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)と平貞盛(たいらの さだもり) という人物がいますが、平貞盛は殺された国香の息子であり、後に太政大臣となった清盛の先祖でもあります。
スマイリー
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