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8月15日の今日は何の日?
織田信長(おだ のぶなが)が斎藤竜興(さいとう たつおき)の居城だった稲葉山城に移り、岐阜城と改称する。
岐阜城は岐阜県岐阜市の金華山(稲葉山)にある山城です。
元々、岐阜は井口と呼ばれてましたが、織田信長が、古代中国・周王朝(しゅうおうちょう)の文王(ぶんおう)が岐山(きざん)から天下を平定したことに因み、城と町を岐阜と名付けたものです。
岐阜城の歴史
鎌倉~室町時代
1201年(建仁元年)鎌倉時代、稲葉山に砦が築かれたのが始まりとされています。
築城主は二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)という公家で、母が源頼朝(みなもとの よりとも)と縁があり、鎌倉幕府でも13人の合議制の1人・政所執事として登用されています。
続いて行政の娘婿・佐藤朝光(さとう ともみつ・伊賀朝光)、その子伊賀光宗(いが みつむね)と砦を支配しますが、二階堂行藤(にかいどう ゆきふじ)の死後廃城となります。
戦国時代
15世紀中頃になると、美濃守護代であった斎藤利永(さいとう としなが)が城を修復し、居城とします。
1525年(大永5年)斎藤氏の家臣であった長井長広(ながい ながひろ)と長井新左衛門尉(ながい しんざえもんのじょう)が謀反を起こし、長井氏の支配となります。
1533年(天文2年)新左衛門尉が没すると、子の長井新九郎規秀(ながい しんくろうのりひで・後の斎藤利政・道三)が跡を継ぎ、城主となります。
1539年(天文8年)には守護代となっていた利政が稲葉山山頂に城づくりを始めます。
1541年(天文10年)に利政は守護の土岐頼芸(とき よりあき)を追放した為、1547年(天文16年)に織田信秀(おだ のぶひで・信長の父)が頼芸派の家臣と稲葉山城に攻めますが大敗してます(加納口の戦い)
1554年(天文23年)に利政は城と家督を嫡男の義龍(よしたつ)に譲り、出家して道三と号しますが、2年後の1556年(弘治2年)4月には義龍は長良川の戦いで道三を討ってしまいます。
1561年(永禄4年)5月、義龍の急死により、子の斎藤龍興(さいとう たつおき)が13歳で跡を継ぎ、城主となります。
これを機に同年6月、十四条の戦いで勝利した信長が稲葉山城を攻めますが、敗退します。
1564年(永禄4年)2月、凡庸な主君だったと言われる龍興に対し、家臣であった竹中重治(たけなか しげはる)と安藤守就(あんどう もりなり)が造反して挙兵し稲葉山城を攻めると、龍興らは城を捨て、重治らが半年間占拠します。
1567年(永禄10年)9月、かねてより美濃攻略を狙っていた織田信長が美濃三人衆の内応により美濃へ侵攻します。
信長の野望での斎藤龍興(左)と織田信長(右)
普通の武将と天下の英雄ではこんなに違うのか(笑)
龍興は城を捨て、舟で長良川を下り、伊勢(三重県)長島へ逃亡しました(稲葉山城の戦い)。
この後信長は城と町の名を岐阜と改め、「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになります。
1576年(天正4年)、信長は嫡子の織田信忠(おだ のぶただ)を岐阜城主とし、織田家の家督及び、美濃・尾張(愛知県)の2ヶ国を譲ります。
城主となった信忠は、更に岐阜城の整備改修を加えます。
1582年(天正10年)6月2日に信忠が本能寺の変で亡くなると、留守居役であった斎藤利堯(さいとう としたか・道三の子)が岐阜城を掌握します。
しかし、明智光秀(あけち みつひで)が羽柴秀吉(はしば ひでよし)に敗れると、織田信孝(おだ のぶたか)らに服します。
6月27日、清須会議で信孝が兄・信忠の遺領の美濃国を拝領すると、岐阜城の城主及び信忠の嫡子三法師(さんぼうし)の後見となります。
しかし、12月20日には秀吉・丹羽長秀(にわ ながひで)・池田恒興(いけだ つねおき)の嫡男・元助(もとすけ)らの兵が岐阜城に迫ったため講和し、三法師を引き渡しました。
1583年(天正11年)4月16日、信孝は長島城主の滝川一益(たきがわ かずます)と呼応し挙兵します。
しかし、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(しばた かついえ)が敗れ、兄・信雄(のぶかつ)によって居城の岐阜城を包囲されると降伏し、後に信孝は切腹させられました。
同年5月、池田恒興が美濃国に13万石を拝領し大垣城主となると、元助が岐阜城主となります。
1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討ち死にすると、岐阜城は1585年(天正13年)恒興の次男・輝政(てるまさ)の居城となります
1591年(天正19年)4月輝政の転封により、代わって豊臣秀勝(とよとみ ひでかつ・秀吉の甥)が岐阜城主となります。
1592年(文禄元年)9月9日、秀勝が没すると、織田秀信(おだ ひでのぶ・三法師)が美濃国岐阜13万石の城主となります。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いが起こると、秀信は石田三成(いしだ みつなり)の挙兵に呼応し西軍につきます。
前哨戦で岐阜城に立てこもるものの、福島正則(ふくしま まさのり)や池田輝政に攻められ落城します。
秀信は弟の秀則と共に自刃しようとしますが、輝政の説得で降伏しました。(岐阜城の戦い)
1601年(慶長6年)、徳川家康は岐阜城を廃城と決め、奥平信昌(おくだいら のぶまさ)に10万石を与え加納城を築城させます。
その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓、山中・山麓の石垣などを加納城に移されたと言います。
移築された加納城図
近代~
1910年(明治43年)5月15日、(初代)復興天守が再建され、落成します。これは、長良橋の廃材を活用したもので、木造トタン葺きの3層3階でした。
1943年(昭和18年)2月17日早朝、失火の為に焼失しました。
1956年(昭和31年)7月25日、鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守(再建)が落成します。
1997年(平成9年)2月、平成の大改修が開始されます。
2006年(平成18年)4月6日、日本の100名城に選定されます。
2011年(平成23年)2月7日、山麓から山頂にかけた約209haの城跡が、岐阜城跡として国の史跡に指定されました。
岐阜城麓の長良川温泉
スマイリー
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コメント
国取り物語読むと、道三はかなり信長かってたし、私以外とわがままな男性好きなんです(^^)
セフィママさん こんにちは
セフィママさんは読書好きなんですね。道三は信長の事はかってたのに、自分の子の義龍まではそこまで評価してなかったんですね。
見る目はあったと思うのに不思議です。