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今日は何の日?
慶長19年1月18日(1614年2月26日)は最上義光(もがみ よしあき)の命日です。
最上義光とは?
天文15年1月1日(1546年2月1日)、最上家第10代当主・最上義守(もがみ よしもり)の長男として誕生します。幼名は白寿丸。
永禄元年(1558年)または永禄3年(1560年)に元服し、将軍足利義輝(あしかが よしてる)より偏諱(へんき 名前の一字をもらうこと)を受け源五郎義光と名乗ります。
永禄3年3月には寒河江城(さがえじょう)攻めで初陣を飾りますが、失敗に終わっています。
永禄7年に義光の妹・義姫(よしひめ)が伊達輝宗(だて てるむね)に嫁ぎ、永禄10年(1567年)に長男の梵天丸(ぼんてんまる 後の伊達政宗 だて まさむね)を産んでいます。
元亀元年(1570年)頃、義守と義光の間で父子の諍いが起き、5月に重臣の氏家定直(うじいえ さだなお)の仲介で和解しています。
そして、8月には義光が家督を相続し、翌元亀2年(1571年)に隠居の義守は出家します。
しかし、天正2年(1574年)1月再び両者の仲が険悪となると、伊達氏から独立傾向を強めていた義光を押さえようと、岳父・伊達輝宗が義守救援の名目で最上領へ出兵します。
天童頼貞(てんどう よりさだ)・白鳥長久(しらとり ながひさ)・延沢満延(のべさわ みつのぶ)らが伊達氏へ同調し、義光は四面楚歌となりますが、巧みに攻勢を退けます。
9月10日には義光有利のうちに和議が成立し、最上氏は伊達氏からの独立に成功します。
そして、義守と義光が争う事もなくなりました。
出羽の統一への戦い
しかし、義光が勝利しても、最上氏庶流の天童頼貞・東根頼景(ひがしね よりかげ)・上山満兼(かみのやま みつかね)らは以前として義光に従わず、谷地城主・白鳥長久も中央の実力者である織田信長(おだ のぶなが)に出羽守の推任を願い出るなど、最上氏の支配は最上1郡をすら出来ていないものでした。
その為義光は名族・最上氏の権威を回復させる戦いに乗り出します。
元々、最上氏は足利氏の一門である斯波氏の分家であり、羽州探題(うしゅうたんだい)を世襲できる家柄でした。
なお、この頃までに正室を同じ斯波氏の一門の大崎氏より得て盟約を結び、天正3年には嫡男・義康(よしやす)が誕生しています。
天正5年(1577年)には天童頼貞を盟主とする最上八盾(もがみやだて 天童氏を中心とする国人連合)と戦いますが決着せず、和睦して頼貞の娘・天童御前(てんどうごぜん)を義光の側室とします。
天正6年(1578年)上山光兼が伊達氏の支援を受け最上領に侵攻しますが、義光は粘り強く防戦に努め、攻城戦から夜戦に持ち込んで連合軍に打撃を与えます。
この時、兄・義光の危機を察した義姫が駕籠で駆けつけ、両者を説得し和議を結ばせます。
天正8年(1580年)、義光は光兼の重臣・里見民部に内応を持ち掛け、上山領を与えることを条件に内応した民部は光兼を殺害し義光に降ったため、上山城を手中にすることが出来ました。
天正9年(1581年)から村山郡に兵を進め、天童氏の姻戚である小国城主・細川直元(ほそかわ なおもと)を攻め滅ばすと、8月には小野寺氏重臣の鮭延城主・鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)を調略しています。
天正10年(1582年)、天童御前が三男・義親を産んで間もなく死亡したため、天童氏との和議が白紙となります。
天正11年(1583年)、庄内の大宝寺義氏(だいほうじ よしうじ)が最上攻めを計画しますが、義光は大宝寺家臣の東禅寺義長(とうぜんじ よしなが)らを事前に内応させており、義長の謀反で急襲された義氏は自害してしまいます。
天正12年(1583年)義光は白鳥長久の娘を嫡男・義康の室に迎えることで懐柔しようとしますが、長久は応じなかった為、病で危篤に陥ったと偽って長久を山形城に誘き出して自ら斬殺すると直ちに谷地城を攻略します。
続いて寒河江城主・寒河江高基(さがえ たかもと)を攻め滅ぼします。
また、父・頼貞の跡を継いだ天童頼澄(てんどう よりずみ)を攻めますが、最上八盾の一人・延沢満延の奮戦で最上軍は敗れます。
そこで、義光の次女・松尾姫を満延の長男に嫁がせて満延を引き抜くと、さらに東根頼景の家老・里見源右衛門(さとみ げんえもん)を調略し東根城を攻略します。
追い詰められた頼澄は国分盛重(こくぶ もりしげ)を頼って落ち延びていき、こうして最上八盾は崩壊し、義光は最上郡全域を支配することが出来ました。
天正14年(1586年)、小野寺義道(おのでら よしみち)と有屋峠で戦い、緒戦は敗れますが、嫡男・義康と楯岡満茂(たておか みつしげ)らが反撃し、小野寺勢の撃退に成功します。
天正15年(1587年)、大宝寺義氏の弟・義興(よしおき)が上杉景勝に接近しているという情報を得た義光は、素早く義興を攻め自害させ、義興の養子・義勝(よしかつ)は越後に逃れます。
天正16年(1588年)2月、伊達政宗が1万の兵で義光の義兄・大崎義隆(おおさき よしたか)を攻めると、義光は援軍を派遣し義隆共に伊達軍を破りますが、義光の妹・義姫が両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせて停戦を懇願した為、両軍は和議を結び撤退します。
閏5月、豊臣秀吉により義光は羽州探題に任命されますが、8月、最上勢が動けないと判断した上杉家が、家臣の本庄繁長(ほんじょう しげなが)・大宝寺義勝父子に庄内侵攻を命じ、十五里ヶ原の戦いで最上軍は大敗し、庄内地方は上杉方の大宝寺氏に奪回されます。
その後も上杉氏との戦いは続き、上杉家重臣・直江兼続(なおえ かねつぐ)が石田三成(いしだ みつなり)経由で秀吉に接近した為、義光は以前から昵懇であった徳川家康(とくがわ いえやす)を通じ交渉にあたりますが、秀吉の裁定により庄内地方は上杉領となります。
豊臣政権の大名として
天正18年(1590年)、義光は秀吉の小田原征伐に参陣し、宇都宮城で秀吉に拝謁し本領24万石の安堵を受けます。
また、奥州仕置きの際に発生した仙北一揆に乗じて小野寺領に出兵し、雄勝郡を奪い取ります。
天正19年(1591年)正月には京都に上洛し、従四位下侍従に補任されています。
同年、家康が九戸政実(くのへ まさざね)の乱で征伐に来た際、次男の家親(いえちか)を家康の小姓として出仕させます。
一方。この征伐に同行していた豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)が義光の山形城に立ち寄った際、三女の駒姫(こまひめ)の美貌に目をつけ、側室として差し出すように迫りました。
義光は断りますが、度重なる要求に屈して渋々承知します。
また、三男・義親を秀吉に仕えさせ最上家の安泰をはかります。
文禄4年(1595年)秀次が謀反の疑いをかけられて切腹した際、秀次の妻子は全て処刑されますが、この中に駒姫も混じっていました。
駒姫はまだ側室でもなかったのですが、巻き込まれ15歳と言う若い年齢で生を終えてしまいます。
この件は義光夫妻にとってショックであり、駒姫の母・大崎氏もこの後すぐに亡くなります。
義光本人にも疑いがかかり、謹慎処分を受けています。
謹慎処分は間もなく解けますが、義光の秀吉に対する憎悪は強まり、ますます徳川家康に接近することとなりました。
慶長3年(1598年)8月秀吉が死去します。
豊臣政権は五大老、五奉行で政務を行いますが、翌年には前田利家(まえだ としいえ)が亡くなり、石田三成も失脚し、家康が政務を行います。
慶長5年(1600年)家康は会津の上杉景勝が軍備を増強していることに詰問し、上杉家家臣・直江兼続は「直江状」と言われる絶縁状で返答します。
これを受け、6月会津征伐を開始し、義光ら奥羽の武将らは家康に味方し、最上領内へと集結します。
しかし、家康が会津征伐に向かう途中、上杉家と昵懇であった石田三成らが反家康を名目に上方で挙兵します。
このため家康は会津征伐を中止し、義光、政宗、結城秀康(ゆうき ひでやす)らに上杉氏の牽制を任せて引き返します。
こうして奥羽の諸侯らは最上領内から引き揚げます。
政宗は孤立を警戒し、上杉氏と講和を結んでしまいます。
とり残された義光は東軍に味方しようと決意していましたが、上杉領と接している家臣は反対し、不利を悟った義光も嫡子・義康を人質とすることを条件に上杉家と講和をはかります。
しかし、義光が東軍の秋田実季(あきた さねすえ)と結び、上杉家を攻める形跡を上杉氏に知られた為、講和は成立せず、孤軍で上杉勢と対峙することとなります。
長谷堂城の戦い
景勝は直江兼続に2万を超える軍勢を与え最上領に侵攻します。
一方、最上軍は7000余しかなかったが、2000丁もの鉄砲を駆使して抗戦します。
まず畑谷城が攻撃されますが、守将の江口光清(えぐち あききよ)はわずか350の兵で義光の撤兵命令を無視して籠城します。
光清の器量を惜しんだ兼続は「降伏すれば名誉ある処置をとる」と勧告したが、光清はこれを拒否し抗戦し、上杉軍に1000名近い死傷者を出させ全滅し畑谷城は陥落します。
上杉軍は続いて山形城の要・長谷堂城(はせどうじょう)を攻めますが、守将・志村光安(しむら あきやす)率いる1000名もよく守り、多大な戦果をを上げます。
上山城や湯沢城でも最上城の守将らが善戦し、上杉軍・小野寺軍に対して守り抜きます。
義光は嫡子・義康を派遣し、甥・政宗に援軍を要請し、政宗は留守政景(るす まさかげ)に3000の兵を与え派遣しますが、戦局を見守るにとどまりました。
9月29日になり関ヶ原での西軍敗報を知った上杉軍は、長谷堂城の囲みを解き、撤退します。
西軍の敗戦の報を知った義光は戦闘にたち上杉軍を追撃します。
しかし、敵の一斉射撃に襲われ、義光自身の兜に被弾するなど、もう一歩のところで取り逃がしてしまいました。
上杉軍は退却しますが、最上軍は逃げ遅れた上杉軍を追撃し、谷地城に籠る下秀久(しも ひでひさ)を降します。
秀久を取り込んだ最上軍は庄内地方に侵攻し、失っていた旧領を奪回します。
義光はこの功により、57万石を領する大名となり、山形藩の初代藩主となります。
戦後
江戸幕府成立以降、義光は領内の復興に尽力し、善政を敷きます。
自国の民に対して非常に寛容であり、義光存命中は一揆もほとんど起きなかったと云わります。
居城の山形城を改築し、城下町を整備します。
羽州街道・笹谷街道沿いに定期市を設け、庄内から山形へ通じる2本の街道を改修・拡幅するとともに、最上川の難所を開削して水運の安全性を高めます。
職人町を「御免町」として諸役が免除されたため、人口が家臣も含め3万を超えました。
農政面では、治水工事を積極的に推進し、庄内平野の開発を進め、農業生産力を向上させています。
大宝寺城を改修して鶴ヶ岡城と改称し自らの隠居城としています。
義光の家族関係
義光は次男の家親を溺愛していました。家親は元々義親と名乗っていましたが、家康の一字を頂き家親と名乗っています。
その代わり三男が義親を名乗っています。
家親と義親は生まれ年は同じですが、あまり仲が良くなかったようです。
立場も徳川方(家親)、豊臣方(義親)と違い、大坂の陣の際、義親は豊臣方と疑われ、家親に殺されています。
長男の義康ですが、最初の頃は親子仲は良好でした。
しかし、家臣の讒言によっていつの間にか険悪なものとなっていきます。
また、家親を家督に継がせたい幕府の思惑も絡んでいたようです。
その為、義康は廃嫡され、暗殺されました。
この讒言は誤解だったようで、讒言した里見民部ら里見氏一族の大半が家督を継いだ家親により粛清されています。
晩年
慶長16年(1611年)3月、従四位上、左近衛少将と出羽守に叙位・任官します。
駿府城新築祝いの為、駿府へ向かいますが、この頃より病がちになります。
慶長18年(1613年)には病が一層重くなり、慶長19年(1614年)1月18日、山形城の帰還して間もなく病死します。享年69
葬儀当日、4人の家臣が殉死しました。
義光の墓所は山形市鉄砲町の光禅寺。
その後の最上家
義光の死後跡を継いだ家親ですが、元和3年(1617年)に急死します。
家親の子家俊(いえとし)が継ぎますが、お家騒動が起こり元和8年(1622年)には改易されます。(最上騒動)
家俊の死後には5000石となり、義光は1代で大きくした最上家も近江国(おうみのくに 滋賀県)の小領主となりました。
義光は大正13年(1924年)2月11日、宮内省より正四位を遺贈されています。
また、平成元年(1989年)12月1日、山形市により最上義光歴史館が建設されました。
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